「日本習合論」から

 一昨日、「純粋はいやだ」と書きました。
 最近読んだ内田樹さんの『日本習合論』(ミシマ社)に、まったくおなじようなことが書いてあります。
 というか、内田さんの本を読んでいたので「純粋」ということばにネガティブな反応をしたんですね。ここでその部分を紹介しておきましょう。

『日本習合論』は、神仏習合から社会の成り立ちを論じています。
 日本人は古代から神社でさまざまな神様を奉ってきた。しかし飛鳥時代に仏教が伝わると、仏様も信仰するようになった。神も仏も共存する「神仏習合」が千年以上、民衆の「信仰」の形でした。

 こういう、神も仏も取りこんでいっしょにしてしまうという融通無碍なところは、西欧思想、キリスト教的な思考ではありえない。無原則というか、理屈の放棄のように見える。でもそういう、本来いっしょにできないことをいっしょにしてしまう習合という形、「雑種性」こそが日本人の本態ではないか。

エゾヤマザクラ(浦河)

 内田さんはいっています。
 ・・・習合は社会集団が寛容で、かつ効率的であるためによくできたシステムではないか・・・日本列島住民は古代から異物と共存することでこれまで「うまくやってきた」んですから、だったら、これからもその伝統を守ってゆけばいいじゃないですか・・・
 そして日本社会の雑種性のなかにこそ「積極的な意味と豊穣性を見いだしたい」ともいいます。

「純粋さ」への批判は、こうした文脈から噴出します。
・・・僕が「習合」ということにこだわるのは、「原初」とか「純粋」とかいうアイディアが嫌いだからです。ほんとうに寒気がするほど嫌いなんです・・・

 原初や純粋は、しばしば排除や否定に結びつく。
「原初の清浄に還れ」というのは、「反ユダヤ主義も黄禍論も移民排斥も民族浄化も在日コリアンへのヘイトも」すべてがそこから出てくるスローガンになってしまう。
 そういうものへの対案として、内田さんは「習合」という考えを練り、論じ、発信しています。ただの批判や糾弾ではなく、異物との共存、雑種性といったことばをふくめながら論を進めているところにぼくは引きこまれます。
 習合論、まことにかっこいい議論ではないでしょうか。
(2021年5月3日)