去年、拙著『治したくない』を書くとき、ずっと手こずっていたことがありました。
「笑いが書けない」ことです。
笑いは、文字にすることができない。それで困りはてました。

本の中味は北海道浦河町の精神科クリニック「ひがし町診療所」の記録ですが、医者や患者、看護師やワーカーがとにかくよく笑う。笑いが主人公だといってもいい。その多彩な笑い、意味を持った笑いを本に書きたいと、どんなに頭をひねっても書けない。たんに「あはは」とか「ワッハッハ」と書いたのでは、ちがうなあと思うことが多かった。書かれた文字が白々しいのです。
それでも、と、「ふふふ」にしたり「ガハハ」にしたり、「お腹を抱えて」や「目をみはって」と付け加えたりしても、ナマの音のニュアンスはない。
文字の世界では、書かれたことばでは、笑いはほとんど消えてしまうのです。

そんな経験に、ことばを与えてくれた人がいます。
・・・言語は、それ自身の音から離れ、言葉を持たない、あるいは持ち得ないものの音・・・を引き受ける時にこそもっとも言葉そのものになりうる。・・・
『エコラリアス 言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房)のなかで、プリンストン大学のダニエル・ヘラー=ローゼン教授が書いていることです。

この引用だけだとちょっとわかりにくいけれど、そして教授は本のなかでこれを「笑い」というよりは「感嘆詞」や「叫び」についていっているのだけれど、要は、どんな言語にも明瞭に区別できない「音」が入りこんでいるということ、しかもその「音」は枝葉末節、どうでもいいようなことではなく、本質的な部分ではないかということです。
うーむ、そうかあ。
読んで、ぼくはずっと手こずっていた課題が急に目の前に、新しい本質的な問いかけとなって現われてきたように思いました。
「笑い」のなかには、日本語の音の体系から外れた音がいっぱいあった。だから文字にできなかった。そういう解釈でいいんですよね、教授?
笑いは言語の一部なのか、そうではないのか。音と言語の境目はどこなのか。
次から次に疑問が浮かびます。それらを体系的に考える学問的な素養はぼくにないけれど、でも考えていればそのうち棒にあたるかもしれない。
『エコラリアス』については、項をあらためて書きたいことがたくさんあります。
(2021年2月2日)