去年11月、北海道白老町の国立アイヌ博物館(ウポポイ)で、展示に違和感を覚えたことを書きました。でも、そこでひとつ感心したことがあります。
伝説のアイヌ語話者、知里幸恵の直筆原稿が展示してあったことです。

ああ、これがあの「ちり・ゆきえ」のノートなんだ。
しばし見とれました。
百年近く前、19歳で亡くなったアイヌの女性。
死ぬまでの数か月、彼女は自分が覚えているアイヌの伝承を必死にノートに書きつづった。それが今日『アイヌ神揺集』として残っています。彼女のおかげで、消滅寸前だったアイヌ民族の口頭伝承は残りました。

知里幸恵はアイヌ語を母語とし、アイヌの祖母たちから聞いたさまざまな口頭伝承を覚えていました。しかもその音をアルファベットで記述し、かつ日本語に翻訳するすばらしい才能を持っていた。その才能を言語学者の金田一京助に見いだされ、アイヌ語を、ユカラ(ユーカラ)を文字として残すことができたのです。
彼女はアイヌ語の最後の使い手ではなかったけれど、ひとつの言語を「伝える」という意味では最後の話者だったといえるでしょう。
知里幸恵が死んで、そのときにアイヌ語もまた消えてしまったと、ぼくは思っていました。
ところが、そういう捉え方はちがうと、『エコラリアス』(ダニエル・ヘラー=ローゼン著、関口涼子訳、みすず書房)を読み、思いました。
新しい世代の言語学者である著者はいいます。言語が生まれたとか死んだとか、生物のメタファーで語るのはおかしい。言語は、もっとちがうものだ。
ではどのようなものか。

ヘラー=ローゼン教授は、「言語は変化するからこそ残っている」といいます。そして絶えざる変化、あるいは変容の正体を「忘却」ということばで徴づけている。忘却のなかから、ぼくらの言語は現れたのだと。それがどういうことか、ここでぼくが要約することはできないし、その力があるわけでもない。
ただ、本を読んだあとで、アイヌ語は消えた、なくなったと捉えるのは言語の本質を誤りかねない、ということだけはわかったような気がします。
余談ですが、来年は知里幸恵が死んでから百年。できることなら北海道登別の知里幸恵記念館に行きたいと思っています。
(2021年2月3日)