支援はあればあるほどいいもの、ではないらしい。
浦河の精神障害者の場合。グループホーム「すみれⅢ(スリー)」の場合。
きのうのミーティングで浮びあがった、深いテーマです。

浦河ひがし町診療所の3つ目のグループホーム、すみれⅢにはことしはじめ男性5人が入居しました。
精神障害者のグループホームは、これまで多くが民間の古いアパートの再利用でした。寒くて暗くて狭くて。でもすみれⅢはちがいます。新築、床暖房、広く明るいキッチンとリビング、個室。
入居者の生活レベルは劇的に向上しました。
当初は新しい住居で新しい共同生活をつくりあげようと、それなりの動きがありました。でも4か月ほどがたち、なんだかその勢いがない。トラブルも起きるし引きこもり傾向も出てきた。またもとにもどっているんじゃないか。

入居者のひとりがいいました。前の住居では、冷蔵庫の余り物を探して自分でメシつくったりした、ここではもうそういうことがない。世話人がいるので飢えることはないけれど、それでほんとに人生よくなったという感じがあるのか、どうか。
そういう話のなかで「支援慣れ」ということばが出てきました。
みんな、支援されることに慣れちゃってるんじゃないのか。
もちろん必要な支援というものはあるけれど、支援を受け「冷蔵庫の余り物」を忘れてしまう、そのときべつの何か大事なものもいっしょに忘れているのかもしれない。うなずく頭がいくつかあります。支援が厚くなっても、病気がよくなったという実感はないのでしょう。

入居者のなかにはまだ新居に定着できず、実家と行ったり来たりのメンバーもいます。ミーティングでも「調子悪いんで、ちょっと休んでいいですか」と席を外すメンバーもいます。新しい暮らし以前に、みんなそれぞれ「やっかいな自分」を抱えていることに変わりはありません。

ひとつ注目されたのは、入居者以外のメンバーでグループホームにやって来て遊んだり、臨時に泊まる人もいるという話でした。
いろいろな人が集まる、出入りする、そういう場所としてすみれスリーは構想されています。外との通路がいくつかできれば、それが新しい形につながるのかもしれません。答のない模索がつづきます。
(2021年5月13日)