ろう球の夢

 アメリカのろう文化には、むかしから伝わる寓話があるそうです。
 この現実の地球じゃなく、ろう者の地球があるんだ、という話です。
 そこでは音声言語がなく、誰もが手話を使う。ろう者の地球、ろう球では、ろうであることがあたりまえで、ろう者が何の心配も気がねもなく自由に暮らしている。

 そういう世界があったらいいなあ、と、ろう者は誰でも一度は思ったことがある。
 その夢を表したのが、ろう球ということばでした。

 さてこのろう球、英語ではアイス Eyeth です。
 なんと、アース(地球 Earth )の“もじり”なんですね。
 アース Earth という単語には「耳 Ear」が付いている。でも、ろう者が暮らすろう球には耳ではなく「目 Eye」が付いている、だからアイス Eyeth というわけです。
(アイスをろう球というのはぼくの勝手な訳語です)

 ろう者は目の人だといわれるけれど、その言い方を巧みにろう文化に取り入れた造語です。アメリカのろう者で、ストックトン大学教授のサラ・ノヴィックさんがニューヨーク・タイムズへの寄稿で紹介していました(Don’t Fear a Deafer Planet. By Sara Novic. Oct. 10, 2021, The New York Times)。

 ノヴィック教授は、ろう者の立場からいいます。
 ろう者は聴者の社会で暮らしながら、保健、教育、雇用など多くの分野で不公平な扱いを受けている。強調したいのは、その大部分が悪意からではなく、無知と経験の欠如から来ていることだ。ほとんどの人がろう者と会ったこともなく、ろう者がどういう人か知らない。それがろう者にとって暮らしにくい社会をつくっている。
 けれどろう者と聴者がともに気がねなく暮らすことは可能だ。実際、アメリカ東部の海沿いにあるマーサズ・ヴィンヤードという島では、18世紀以降、多くのろう者が聴者とともに暮らしていたのだから・・・

マーサズ・ヴィンヤード島 (iStock)

 マーサズ・ヴィンヤード島はろう者が多く、一般社会より手話が普及していたので、ろう者にとって暮らしやすい地域だったようです。ノヴィック教授はいっています。
「マーサズ・ヴィンヤードから学べることはかんたんだ。ろうを障害と思わなければ、それは障害にはならない」

 聴者の社会に少しのくふうがあれば、聴者とろう者はずっと共存しやすくなる。
 そうなればアイス Eyeth ということばはなくなるのかもしれません。
(2021年10月11日)