ぼくはチベットに、片思いのような親近感を持っています。
80年代はじめに、BBCの「ワールド・アバウト・アス World About Us」というドキュメンタリー・シリーズのチベット編を放送して以来でしょうか。
この番組は中国がチベットに侵攻し、ダライ・ラマ14世がインドに逃れた混乱の記録です。そのなかに、平和だったころのチベットの首都ラサや、ヒマラヤを越えてゆくチベット難民の貴重な映像がありました。

BBCは「シャングリラ」ということばを使っていました。
かつてチベットはシャングリラ、理想郷だったと。人びとはチベット仏教とともに生き、転生を信じ、祈りつづけることが人生だった。いまから思えばシャングリラだったというのです。
理想郷なんてものがこの地上にあるはずはないから、もちろんこれはたとえです。でも、自分の生活も信仰も文化も、すべてを失った人びとがふり返ればそれはシャングリラなのでしょう。
中国が来るまでのチベットは。
そのシャングリラ、むかしのチベットの映像で印象に残るシーンがありました。
チベット仏教の修行僧が大勢、1対1になって論争しているシーンです。経典に書かれたことをどう解釈するか、かぎりない論争をくり広げている。おそらく修行の重要な過程なのでしょう。

おなじような場面は、2014年のドキュメンタリー映画「ダライ・ラマ14世」(三石富士朗監督)にも出てきます。ぼくはそれを見て、チベット仏教というのはとても人間くさい宗教なんじゃないかと思うようになりました。
しろうとのぼくが印象でいうのは危ないのですが、チベット仏教は修行の過程で問答という形をとても大事にしていると思います。ただ教えられたことを覚えるのではなく、解釈や主張、論争をとおして宗教共同体をつくりだそうとしているのでしょう。そのような宗教とともに暮らすチベットの人は、ことばをとても大事にするのではないでしょうか。

インドに逃れたチベットの難民も、チベットに残った人びとも、信仰から離れようとはしません。それは彼らの宗教が、人間の弱さやいい加減さを受け入れているからではないかと、ぼくはひそかに思っています。指導者や経典に絶対服従を求め、何も考えるなというような宗教ではない。つまりチベット仏教にはある種のゆるさ、人間的な幅があるんじゃないかな。
そんなふうに勝手に想像しながら、ぼくはチベットの人びとに親近感を覚えています。
いやもしかしたら親近感が先にあって、チベット仏教に対する見方はそれに合わただけかもしれませんが。
(2021年3月6日)