いい映画でした。
感動や興奮があったわけではない。意表をつく展開もない。でも、「感動」なんかよりずっと残るものがある映画です。
「羊飼いと風船」、チベット映画です。
監督のペマ・ツェテン、主演のジンバ、ソナム・ワンモといった俳優はすべてチベット人。公式には中国映画でしょう。でもこれはまぎれもないチベット映画。画面からはチベットの羊飼い一家の暮らしが濃厚に立ちあがります。

映像化された文芸作品でしょうか。映像を見るのが、良質な文芸作品を読んでいるような時間になります。話は散らばって、どこに行くのかわからない。結末がはっきりしない、というより、ない。でもそこに人間がいる。芯になる羊飼い一家の日常はていねいに描かれている。そうだよな、これが人生だよなと、どこかで見るものを納得させる「つくりの深さ」があります。
その深さをもたらすのは、チベット仏教でしょう。
表面的には、羊飼い一家は古くさい宗教に囚われた愚鈍な人びとと見える。けれど、その愚鈍さこそがこの一家の「濃さ」であり、映画の主題です。近代はこの濃さを超える人間を生み出しただろうか、ひょっとしてこれは中国共産党への痛烈な批判じゃないかとまで思いたくなる。ツェテン監督はそんな低レベルの映画をつくったわけではないけれど。

映像もすぐれて今日的です。4Kや8Kの高精細とか息をのむアクション、ドローン撮影があるわけではない。正反対の、そんな技術を陳腐化するようなボケやぶれ、にじみ、すりガラス越しのようにおぼろげな映像が頻出する。ところが、それは見るものを拒むのではなく招き入れてくれる。いいなあ、こういう迎合しない映像って、って思います。
ツェテン監督は、中国の検閲でこの映画の台本を書き直したといいます。オリジナルの台本にはどんな映画があったのでしょうか。
一方で、こんなふうにも思います。中国のチベット同化政策やチベット仏教弾圧を、むしろいっさい描かないことによって、この映画はファンタジーとなり作品としての完成度を高めたのではないかと。
そんな甘いもんじゃないと、監督はいうかな。
(2021年3月5日)