テントの大使館

 いまからちょうど50年前の1月26日、オーストラリアの先住民アボリジニが、首都キャンベラに大使館を設置しました。
 4人の若者が公園に1本のパラソルを立て、「アボリジニ大使館」という看板を掲げたのです。
 パラソルはやがて数十のテントに広がりました。警察の排除にもかかわらず、「大使館」は先住民の権利回復を進め、オーストラリアという国の「良心を問いつづけてきた」とBBCが伝えています(Aboriginal Tent Embassy: A powerful beacon of protest for 50 years. 25 Jan. 2022, BBC)。

アボリジナル大使館(2009年)
(Credit: F.d.W., Openverse)

 その運動の余波の、さらに小さなさざなみをぼくが日本で感じたのは1980年代でした。
 オーストラリアの有名な観光地「エアーズロック」の英語名が、現地語の「ウルル」に変わったのです。オーストラリアもけっこう進歩的なんだと思ったことを覚えています。

ウルル(旧エアーズロック)

 その後、人類学者の本を読んで、オーストラリアでは1970年ごろまでアボリジニの子どもが組織的に「拉致」されていたことを知りました。「野蛮な子ども」を白人社会で育てるという、当時としては人道主義、いまから見れば人権無視のきわみです。親から強制的に引き離され拉致されたアボリジニの子どもは、2万人とも10万人ともいわれます。そういう差別と先住民迫害の歴史から、オーストラリアは少しずつ抜け出してきました。

 その過程で、「アボリジニ大使館」の果たした役割は大きかった。
 テントの大使館は、白人が奪った土地の返還、ウルルのような各地にある先住民の聖地の保護、先住民への賠償などを求めてきました。50年にわたる運動は、アボリジニ自身の立場を強め、白人社会の変革を促してきたといえるでしょう。

 一方ワシントン・ポストは、アボリジニが「民族旗」を使えるようになった、と伝えています(1月25日)。

アボリジニの旗
(Credit: David Jackmanson, Openverse)

 黒と赤の二色、真ん中に黄色い円の旗は、アボリジニの作家が考案し、長年アボリジニ運動の象徴でした。ところがどういう経緯からか、ある民間会社が著作権を獲得し勝手に使うことができなくなっていました。この事態を打開するため、このほどオーストラリア政府が当の民間会社と交渉して約15億円で著作権を買い取り、誰でもこの旗が自由に使えるようにしたということです。

 アイヌや琉球の人びとを同化し、単一民族をつくることしか考えなかった、そしていまでもそう考えているとしか見えない日本と、社会のつくり方の方向がちがうのですね。
(2022年1月27日)