アメリカでなぜキリスト教原理主義がはびこるのか。
答はかんたんではないけれど、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんの指摘に、なるほどと思った点があります。キリスト教原理主義は、世界は神がつくったという創造論をそのままそっくり真実とするけれど、ガブリエルさんはこういう「いわゆる創造論」は19世紀アメリカではじまった流れだといいます(『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)。
・・・創造論は、ドイツでは何の役割も演じていません。ドイツ語圏の神学者には創造論の信奉者などほとんどいないからです・・・
そうか。創造論、原理主義はアメリカの専売特許みたいなもんだったんだ。
聖書を「うのみ」にする原理主義者と、そうではなく「解釈」し、「学ぶ」対象と考えるそれ以外の人びと。ぼくは原理主義と一般のキリスト教のあいだにはそんなちがいがあるんじゃないかと考えるようになりました。
ディープ・ステートを信じる、トランプを支持し、議会に乱入し、コロナなんてウソだという人びと。白か黒か。敵か味方か。神か悪魔か。彼らはすっきりした説明でないと受けいれず、人間の、社会の複雑さに耐えられない人たちなんじゃないだろうか。
それに対し、追悼式典を開催してコロナの犠牲者40万人に思いをはせ、「傷をいやすために、記憶する」と述べたバイデンさんのように、ものごとをもう少し複雑に捉えようとする人びと。
原理主義的なものとそうでないものの差異は、ものごとを単純に捉えたいという欲求と、めんどくさいけどごちゃごちゃした人間同士のかかわりのなかに入りこんでいこうとする志向のちがいではないだろうか。それは力を信じる人びとと、力ではないものでつながろうとする人びとのちがいでもあると思います。

原理主義的な思考に陥らないために、キリスト教も多様だということを思い起こしましょう。
タイトルの上に出した写真、丘の上の十字架は、アフリカのケニア北部、トルカナ地方で1981年に撮影したものです。
当時ぼくはナイロビから小型飛行機をチャーターし、砂利だらけの原野に着陸してカトリック団体の「お助け小屋」にたどりつきました。そこを拠点に1週間、干ばつと飢饉の取材をしています。
たくさんの犠牲者を見ました。その数は何千人か、何万人か、統計なんてありません。カトリック団体CRSの活動がなければ、飢饉の犠牲者はもっとずっと多かったでしょう。彼らのように地道な活動をいまもなおつづけている人びとにぼくは敬意を抱きます。
(2021年1月20日)