病気や障害のない「健全な子」を求める。
そのために受精卵を検査し、選別する。さらには遺伝子の選別、改変にまで目を向ける。
そういう、この社会の「優生化」に斬りこんだ本を、きのうこのサイトで紹介しました。
そこで書き残し、でもどうしても書いておきたいことがあります。
それは「選ばれた側」についてです。

命を選別するというとき、それが重い遺伝性の疾患を避けるためなら「治療」かもしれない。でもそうではないとき、たとえば「頭のいい子」や「姿形のいい子」を目ざした選別であるとき、それはどうなるか。
じつはそういう子どもはまだ現実に生まれてはいないから、真剣な議論にはならない。でももしそういうことが行われるようになったら?
こんな仮定にぼくがこだわるのは、かつて哲学者でハーバード大学のマイケル・サンデル教授がこの問題についていったひとことが頭を離れないからです。
「それは究極のディスエンパワメントだ」

『The Case Against Perfection』
ディスエンパワメント disempowerment 、力を奪うこと。でもこの文脈では、「その人らしさを奪うこと」でしょうか。つまり人間としてのいちばん深い部分の力を奪い取ってしまうことだと思います。
自然の摂理にまかせるのではなく、誰かが意図的に遺伝子を操作してつくった子は、存在への確信、自分らしさを持つことができない。サンデル教授はそういったのだとぼくは受け取りました。
多くの精神障害者の話を聞いた経験から、ぼくは当事者が「なんでこんな自分を産んだんだ」といって親とぶつかったことを知っています。無理もありません。彼らはたいへんな困難や苦労に翻弄されていたのだから、答えはないとわかっても親に向かってついそういってしまう。だいたいは年月がたってから語られる笑い話です。
でも「なんでこんな自分を産んだんだ」が、答えのある問いだったらどうなるか。
これは笑い話になりません。
こんな自分ではない自分に、どうしてあなたはしてくれなかったのか。それはたんなる質問ではなく、どんな文学もこれまで表現したことのない悲鳴になるかもしれない。
ディスエンパワメント。サンデル教授のひとことは、ぼくのなかでは精神障害者の経験の、その向こう側にある不条理、「笑えない世界」をさしています。
(2021年6月16日)