去年1年間、あちこちで書評を目にしたベストセラーです。
『ザリガニの鳴くところ』、ディーリア・オーエンズ・著、友廣純・訳、早川書房。
アメリカにしてはめずらしく、深みのあるミステリーでした。
文学としての深みではなく、著者個人の深み。それ同義反復でしょといわれるかもしれないけど、その微妙なズレを楽しんだような気がします。

東海岸のノース・カロライナ州、その大西洋に面した湿地帯で、家族に見捨てられ孤独に生きるひとりの少女。学校に行かず文字も読めず、30以上の数字も数えられない。でも複雑な自然のなかで、生きる力は身についてゆく。時代設定は1950年代から70年代。
少女はたったひとり友だちになった少年から読み書きを教えてもらい、日ごろ目にする鳥や獣、魚介の名前を知るようになる。めきめきと才能をのばして湿地生物の専門家にまでなった。
そこにひとつの殺人事件が起きて、というミステリー仕立ての物語。

(ノースカロライナ州、iStock)
タイトルの『ザリガニの鳴くところ』は、少女が母親から教わった言い伝え。湿地の奥深く、誰もいない自然の真っただ中に入ると、そこではザリガニが歌っているんだよと。物語のほんとうの主人公は少女というより湿地なのでしょう。豊穣な自然、そこにいる無数の生きものたち。
この本には、アメリカのミステリーや小説の多くから漂ってくるあの暴力的なものがない。潔くてかっこよくて幼稚なカウボーイ性がない。あとがきを読んでわかりました。ディーリア・オーエンズさんは博士号も持つ動物学の専門家だったんですね。これまでに書いたのはほとんどが動物学の論文、70歳にしてはじめての小説だったといいます。
それが全米のベストセラー、映画化されるまでの傑作になった。

分析はいろいろあるだろうけど、ぼくは「母親との和解」が描かれているからこそ、この本は多くの人びとを捉えたのだと思います。DV夫に耐えかねて家を出た母は、少女がずっと待ち望んだにもかかわらずついに家に帰ることはなかった。母はなぜ自分を見捨てたのか。
でも、自分自身がむき出しの暴力を受けたとき、はじめて少女は気がつく。母は、そうするしかなかったのだと。
湿地のさまざまな動植物を描く著者の精確な描写が、この本のもうひとつの楽しみです。
アメリカのミステリーも、探せばいいものがあるんだ。でも何度も失敗しないとこういう作品には出会えないんですよね。
(2021年4月7日)