万葉の世から見たなら

 ピーター・マクミランさんの読みは深い。
 きょうの朝日新聞「星の林に ピーター・J・マクミランの詩歌翻遊」を読んで思いました。
 タイトルは「性別に囚われない愛の形」、大伴家持の歌です。

  我が背子(せこ)は玉にもがもなほととぎす
   声にあへ貫(ぬ)き手に巻きて行(ゆ)かむ
  (『万葉集』巻17・4007)

 マクミランさんによる現代語訳は、「貴方(あなた)が玉だったらいいのに。それなら時鳥(ほととぎす)の声と一緒に糸に通して手に巻いて行こう」。
 すぐ後に、この歌への大伴池主の返歌があります。

  うら恋(ごひ)し我が背の君はなでしこが
   花にもがもな朝な朝な見む

 現代語訳は「恋しい貴方様が撫子(なでしこ)の花だったらいいのに。それなら毎朝見よう」。

 これ、恋歌のやりとりですよね。
 男と男の。
 奈良時代の、万葉の人びとのなんとおおらかなことか。この「男同士の深い絆」についてマクミランさんは、「実際に恋人だったかはともかく、単なる戯れではない二人の愛の深さの黙示である」と書いています。
 返す刀で、「それほど性に寛容だった日本であるが、近代以降は性的少数派がタブー視される」ようになったともいいます。

 この記事を読みながらぼくは思いました。
 ここまで踏みこんでこの歌を読んだ日本人は、これまでにいただろうか。
 読むことはできても、その読みを迷いなく書きこむことのできた専門家はいただろうか。
 マクミランさんが「外から来た人」だから、できたのではないか。性的少数派がタブー視されていない西ヨーロッパの人だからこそ、現代の日本人とはちがう目でこの歌を読むことができ、捉えることができたのではないだろうか。

 ぼくは歌にも古典にもしろうとだから、見当ちがいかもしれません。でも歌を解説するこのコラムを、さらにメタに解説してくれる人がいないだろうかと思っています。
(2021年6月27日)