朝日新聞に連載されるピーター・マクミランさんの「詩歌翻遊」は、愛読するコラムのひとつです。
毎回テーマとなる古典の和歌、俳句には、はるかな時と人の世のはかなさがあり、だからこそ自分は何か大きなものにつながっていると思わせてくれるものがあります。古典の力でしょう。

このコラムの一層の魅力は、著者のマクミランさんが古典に寄せて自身の身上をさらりと書きこむところにあります。17日のコラム「散りゆく桜に母の死を重ねて」もそうでした。
この日、引かれたのは万葉集の柿本人麻呂の歌です。
・・・桜花咲きかも散ると見るまでに
誰かもここに見えて散り行く・・・
咲いてまた散りゆく桜に、人の世の一期一会を重ねている。
そう説いてマクミランさんは、アイルランドにいる自分の母親が昨年末に亡くなったと明かします。生前、母親は自分の葬儀には風船を飛ばしてほしいと語っていた。その願いを受けて、墓前では母の歳の数、88個の青い風船を空に解き放ったとか。「慰められるとともに、さらに深い悲しみが募った」そうです。

マクミランさん一家は、両親が名門の出ではあったけれど没落し、「貧しく、多くの困難を抱えていた」といいます。しかも母親は「長年父によるDVを受け、文学への夢も押しつぶされてしまった」。
散る桜を詠んだ柿本人麻呂の歌から、思い起こすのはこの母親のことでした。
そして彼はいいます。
日本はシングル・マザーの貧困率の高さやDVなど、女性にまつわる社会問題を数多く抱えている。その深刻な状況を見るにつけ母のことを思う、と。
「亡き母のためにも、私は女性の権利拡大を支えていくことを誓う。DVの被害者を微力ながら支援し続けていくことを。」

(国際女性デーの花)
誓う、ということばの強さに、ぼくは打たれます。
ふつう男が女を支援したいというとき、「可能なかぎり」とか「したいと思う」という言い方になってしまう。でもマクミランさんにそのニュアンスはない。「誓う」はどこから来るのか。
文学への思いなのだろうと思いました。母親はただDVを受けただけでなく、それによって文学への思いも断たれてしまった。
その痛切を、文学者として誰よりも知るがゆえに。
(2021年3月17日)