ひさしぶりに神保町の岩波ホールに行ってきました。
映画「ブータン 山の教室」を見に。
2時間、至福のときを過ごしました。こんないい映像はめったに見られない。映画としてはもの足りないにしても。
シンプルな話です。
ブータンの町で育った若者が教員になり、山奥で電気も車もない「世界一の僻地」に赴任する。そこで子どもたちに出会って成長する。それだけのことで、感動のドラマやアクションや名演技があるわけではない。にもかかわらずこの映画は特別でした。これはぼくのためにつくられた映画でした。

映像が、「映画」や「脚本」や「演技」を越えていたからです。
映像というよりは、ブータンの人びとの生き方が、というべきでしょうか。
こういう書き方をすると、ぼくはただのブータン・フェチといわれてしまう。行ったこともない国に妄想を抱いているだけ。でもいいんです。この映像に浸りながら、ぼくは猫がマタタビを抱えているときはこんな気持なんだろうと思っていました。

全編にやわらかさがあります。
おだやかな人がおだやかに暮らしている、そういう暮らしから立ちのぼるやわらかさです。西欧の映画ではありえない、人びとと自然の息づかい。厳しい自然のなかを生きのびた人びとは、同時にたくさんの死者を見送りながら生き残った人びとでもある。そうした人びとと、彼らを擁するヒマラヤの過酷な自然。そのかかわりが、おだやかさとして伝わります。
アメリカの作家ピーター・マシーセンはかつて、アフリカのサバンナには「死者の霊が満ちている」と書きました。それにならっていえばブータンには「死者と山の霊が満ちている」でしょうか。

感動を求める人は、この映画を見て失望するでしょう。絆や理解ともすれちがう。
西欧の文明に浸りきったぼくらは、それ以外の生き方がこの地上にあることをこの映像で知ります。知るというより、かつて知っていたことを思い起こすのでしょう。もうほとんど忘れてしまって思い起こすことができない、でも大事だということだけは覚えている、そのことを、もどかしくもこの映像を見ながら思い起こそうとするのです。
(2021年4月22日)