依存の迷宮

「依存は病気なのか」をこのブログに書きました(1月20日)。
 アメリカの精神科医、カール・フィッシャーさんのニューヨーク・タイムズへの投稿です。これについて批評家のダフネ・マーキンさんが論じました。依存は理解できるのかと。
 2人の議論を読んで思います。
 依存は病気かもしれないしそうでないかもしれない。理解できた気になるけれどやっぱりわからない。でも、わからないのが大事なことではないか(Will We Ever Understand Addiction? By Daphne Merkin, Feb. 14, 2022, The New York Times)。

 2人の論考は、フッシャーさんの依存についての近著(THE URGE: Our History of Addiction)をめぐって交わされています。
 フィッシャーさんは、自分自身がアルコール依存だった経験と、そこから進めた依存症の研究について書きました。マーキンさんは著書を通してフィッシャーさんの考察をさらに考察しています。

 2人の論考を咀嚼してみると、書かれているたくさんのなかのひとつはこういうことです。
 アルコールにしろ麻薬にしろ、使った人のすべてが依存症になるわけではない。日本の厚生省がいうように、「一度使ったらやめられません」ではない。けれど10%から30%の人は深刻な依存になる。
 それにどう対処すればいいか。絶対禁止、厳罰的な対応は本人の罪悪感や社会的なスティグマを強めるだけで効果はない。治療薬を使いながらていねいなケアをすること、その組み合わせで回復への道を探すべきだという流れはほぼ見えてきました。

 依存への対応は時代とともに変わっています。でも根源の疑問はそのまま残っている、とフィッシャーさんはいいます(と、マーキンさんが指摘する)。
 依存とは何か。依存はどこから来るのか。
 それは人間のなかから来るのか、たとえば脳神経のメカニズムのなかに組みこまれているのか、それとも外部の要因、たとえばコカインの薬理だとか、それを使う人の心理的、社会経済的な環境によってもたらされるのか。その組み合わせなのか。

 幾多の考察をかさねながら、結論は明確ではない。マーキンさんは、依存は謎にみちていて捉えがたいというにとどめている。フィッシャーさん自身、どうして依存から回復したかわからないのではないかともいっている。
 依存をめぐっては、こういう単純明快ではない議論がかえって腑に落ちます。たぶん依存とは何かという問いが、人間とは何かという問いとしばしば同義だからです。
(2022年2月21日)