依存は病気なのか

 アメリカで去年、麻薬などの薬物の過剰摂取で10万人以上が死んだこと、その対策として「取締と処罰」ではなく「ハーム・リダクション」というアプローチがはじまったことをこのブログで何度か書きました(6月29日、8月15日、11月17日)。

 取締と処罰を進める人たちは、薬物依存は本人の意志が弱いからで、規律と矯正で臨むべきだと考えます(日本の司法は徹底してこちらの路線です)。それでは解決しないという人たちは、彼らを否定するのではなく「まず救う」から入り、いのちを救う「ハーム・リダクション」を提唱します(日本の保健行政には皆無です)。
 このときキーとなるのは、依存は病気だ、という考え方でしょう。
 あなた自身が悪いのではない、病気なのだ、その病気を治せばあなたは立ち直れるというのです。
 それは有効なときもあるけれど、より大きな問題に対処できないと当事者の医師がいっています(It’s Misleading to Call Addiction a Disease. By Carl Erik Fisher. Jan. 15, 2022, The New York Times)。

 依存症は病気かという議論を提起したのは、カール・フィッシャー医師です。
 彼の寄稿をぼくなりにまとめると、核心にあるのは人間の「意志」ということになるでしょう。依存は人間の意志が及ばないところで進行する病気なのか、それとも本人の意志が関与していて、病気といってすますことはできない状態なのか。フィッシャー医師は、自身も両親もアルコール依存だった経験を振り返りながら、後者の立場に立ちます。

 病気という見方をするなら、依存は治療の対象になる。依存症者は生物学的な人間として治療の対象とされる。
 そうではない。依存は医療だけでは対処できず、コミュニティの、社会経済の視点が欠かせない。就労や住宅問題、差別や偏見、抑圧を無視したところで依存に対処することはできない。
 依存は病気という捉え方は、そこから抜け出そうと懸命に努力したのに失敗したときなど、救いになることもある。しかし人間誰もが直面しなければならない自制と苦難から、依存症を切り離してしまうことにもなる。

 依存を考えるときに必要なのは、運命論ではなく希望だとフィッシャー医師はいいます。
 その希望を見出すのはいつも困難で、ときには不可能です。きっとそのことを知りつくしながらの提言でしょう。病気という捉え方を否定するわけではないけれど、そう捉えていたら全体が見えないという主張は、依存のむずかしさ、現場のむずかしさをよく反映していると思います。
(2022年1月20日)