ヨーロッパの「直す権利」を求める運動について書きました(7月3日)。
工業製品を使い捨てるのではなく、直して使えるようにしようという「修理権」の運動です。
ぼくがこの運動に引かれたのは、藤原辰史さんの『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考―』を読んでいたからです。

この本には、藤原さんが壊れたスマホを修理する話が出てきます。電池がだめになったので交換しようとした。でもスマホは修理できないようにできている。四苦八苦、投げ出しそうになりながら、でも最後にはやり遂げる(学者のくせに?こういうことするってすごい。それだけでもぼくは尊敬します)。
そこで出てくるのが、スマホは「計画的陳腐化」がなされているということでした。
計画的陳腐化というのは、スマホだけでなく、パソコンや電気製品の多くがすぐに「陳腐化」する現象をさします。そうなるようにメーカーがしくんでいる。消費者はその戦略に乗り、旧製品を長年にわたって使おうとはせず、また修理して使おうという気も起こさず、つねに新製品の買い替えに走ります。

『分解の哲学』は、それを批判しているわけではない。現代世界はなぜそうなっているのか、それをぼくらはどう読み解けばいいのかを、さまざまな経路から論じています。
ここでは、同書のなかで印象に残るもうひとつの例を引いておきましょう。
それは「イタリアの自動車は壊れる」という話です。
ふつうなら、あのイタリア人がつくるんだから、そりゃ壊れるだろうよ、という話になる。でもここではちがう。哲学的に考察すると、「壊れる自動車」には価値がある、意味がある、という話になってゆく。壊れた車を直しながら使う、そういう暮らしを積み重ねてイタリア人の人生はつくられてゆく。

すごく飛躍した言い方をするなら、ピカピカの、完ぺきな完成品は人とつながらないということです。つながらないだけでなく、人と人を分断する。日々の暮らしをつくらない。だから、イタリア人のつくる車は壊れる、でもね、と話は展開する。この話のすごいのは、車だけじゃなく人間もまた、ピカピカの完成品はまずいんじゃないか、と思わせてくれるところです。
スマホや車は『分解の哲学』のごく一部でしかない。藤原さんは微生物から人間にいたる生命全体を、組み立てや統合、完成というよりは分解や腐敗、変容といった方向から論じて、ぼくらを混乱させてくれる。その混乱が楽しい。
(2021年7月7日)