天国にちがいない

 何なんだろう、これは。
 パレスチナ人のエリア・スレイマン監督の映画ということで、ほかに何の予備知識もなく「天国にちがいない」を見に行きました。フェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」の21世紀版のような映像、楽しく美しく、ユーモアに満ちて難解です。
 難解?
 そういう言い方はよくないか。どんなふうにでも見ることができる。多重性、重層性ですね。

映画パンフレット

 イスラエル、パリ、ニューヨークを移動する映画監督の物語。すべてのロケ地が、ベルトルッチ映画のような重厚な美しさで描かれる。そこに現れる人間の愚かしさ、いとおしさ。

 その奥にあってつねに消えない不安、不条理。イスラエルに空爆されるバレスチナのような。具体的なイメージは何ひとつ出てこないのに、見るものに喚起される意識。空き瓶を石壁に叩きつける男、パリの地下鉄のパンクな若者、ニューヨークの空を飛ぶヘリコプター。なんだかいつも刃を向けられている。これが、パレスチナなんだろうか。
 合間に現れる、オリーブの茂みの平和。日常。退屈。

パンフレット映像

 ぼくはこの映画が、評価が低いらしいということで逆に見に行く気になりました。ある映画サイトを見ると評価は5段階で「3.2」、最低に近い。ということは、めっけもんかもしれないと。当たりだったと思います。

 もちろんこの映画に単一の解釈はない。それを承知でいうなら、ぼくは「天国にちがいない」を見て、抵抗には様々な形があると思いました。独裁者への、暴力への、抑圧への抵抗です。パレスチナで、ミャンマーで、ウイグルで起きていることは、ぼくの町にも無数にあるDVや虐待、抑圧とつながっている。そうしたことにどう抗っていくのか。

ナザレ、イスラエル
(スレイマン監督の出身地 iStock)

 ドキュメンタリーという形もあるだろうし、告発糾弾の劇映画もある。少しひねって、からかうとか笑うというのもあり。だいぶ離れたところに、「天国にちがいない」があるんだと思います。およそ天国とは遠い現実を寓話として描くことで、スレイマン監督はぼくらの理性や知識にではなく、無意識の領域にまで踏みこもうとする。それがけっして不快ではない。

 見たあとで反省がありました。もうちょっと予備知識があればよかった。
 スレイマン監督はパレスチナ人だからてっきりイスラム教徒だと思ったら、なんとキリスト教徒でした。おまけに映画のなかで、どこの国から来たと聞かれてイスラエルといわずに「ナザレから来た」といいます。キリストが育った土地だと、あとで知りました。
 つまり、もういっぺん見るといい映画なのです。
(2021年3月18日)