山海の幸が届いて

 もらいものです。おすそわけ。
 そういって、地元の人が海の幸山の幸をぼくの家まで届けてくれました。
 もらうのがもったいないくらい、いろいろ、たくさん。
 桶いっぱいに持ってきたので、思わず拝みたくなってしまいます。

 高級魚のキンキ、獲ったばかりのマツブ(つぶ貝)、それにヤマウド、ワラビなど。
 キンキはウロコも内蔵も取ってあるからあとは煮るだけ。ヤマウドは皮をむいて湯を通し、ワラビはていねいにアクを取ってありました。


 マツブは貝殻付きなので、これは自分でさばきます。といっても魚屋さんのような仕事はできないから、殻ごと新聞紙にくるんだのを金槌で叩きました。それでも磯の香りいっぱいのツブ刺しができました。

 ハイライトはキンキ。酒をたっぷり使い、醤油とミリンで煮付けます。キンメよりもさらに上品で脂が乗っている尾頭付き、目玉のまわりまで食べつくしました。

 こういうしあわせは都会の暮らしにはありません。
 もちろんキンキもヤマウドもお金を出せば手に入るけれど、いただきものであるところにほんとうの価値があります。都会にはない価値が。


 海の幸、山の幸に恵まれる。たくさんとれたのを、そこにいた人にあげる。もらった人がまたそれをぼくのところにまで届けてくれる。商売でも交換でもない、贈与。その連鎖。これが浦河で少しずつぼくのまわりを埋めるようになります。

 人類学は、贈与は、贈ること、受け取ること、返礼をすることの3つで成り立っているといいます。
 こういう贈与について、最近ぼくは考えるようになりました。
 贈与はありがたく受け取っていい。そして贈与には返礼をしたいと思う。けれど返礼は等価でなくていいし、すぐにしなくてもいい。贈与してくれた相手にするのではなく、ほかの誰かに、いつか別の形でしてもいい。いやむしろそういう形の「ずれた」返礼こそが、ほんとうの意味での返礼になるのではないか。

 こういう考え方をするようになったのは、浦河ひがし町診療所のさまざまな活動を見るようになってからです。経済ではくくれない、金勘定では理解できないやり取りが、ここでは日々いろいろな形で起きている。それは贈与であり返礼なのだと捉えれば、なんだか納得できるような気がするのです。
(2021年5月20日)