ブリトニー・スピアーズさん、ごめんなさいです。
この超大物(らしい)歌手をめぐって、先月からアメリカのメディアが大騒ぎでしたが、ぼくはてっきり、芸能人のどうでもいいスキャンダルと見過ごしていました。
でもニューヨーク・タイムズを読んだら、けっこう重いテーマでしたね(Britney Spears and the last resort of mental health care. June 30, 2021, The New York Times)。

スピアーズさんは重度の精神疾患とされ、2008年から成年後見制度の対象となっていました。
つまり自由を奪われてました。
その自由を取りもどしたいと、成年後見制度の中止を裁判所に求めたのです。
証言によれば、彼女は自宅に閉じこめられ、強制的な精神科の治療が施され、向精神薬を飲まされるほか子宮内避妊具(IUD)を装着され外すことも許されなかった。日常生活はつねに監視され、財産はすべて後見人の父親が管理している。自分の人生はどこにいったのか。もうやめてほしいと裁判官に訴えました。

でもスピアーズさんの後見制度は中止されませんでした。たぶん過去のさまざまなできごとや薬物の乱用などから、裁判所もそう判断せざるを得なかったのでしょう。
彼女のセンセーショナルな証言を機に、ニューヨーク・タイムズはあらためて社会と精神障害者のかかわりという古くて新しい課題を取りあげています。
後見制度は、精神障害者を病院に閉じこめておくよりはずっとましかもしれません。けれど社会が合法的に患者から自由を奪うしくみであることに変わりはない。そこで問われるのは、自由を奪っても、後日、あるいは大きな観点から見て、本人にとってより大きな「得るもの」があるかどうかでしょう。

ブリトニー・スピアーズさんの訴えは、ぼくに不安を抱かせます。
彼女は後見人である父親のもとに置かれ、何を得るのだろうか。
社会は、法は、こんなことをしていいんだろうか。本人を守るためにといって取られるさまざまな措置は、本当に本人のためなのか、それとも父親のためなのか、社会のためなのか。
精神科の治療を受け、立ち直ったひとりの当事者がふり返って書いています。
「病院での治療には感謝しているし、いまならそれが必要だったとわかる。でも私はいつもこの私だった。その私が、あなたは正気かと問われつづけた経験は忘れることができない」
こういう当事者のことばには、非当事者にはない切実さがあると思います。
(2021年7月4日)