ここ数日、すばらしい天気がつづいています。
からりと晴れ、澄んだ空気と新緑。ものみなすべてが輝いているかのようです。
4月だけど五月晴れ、こういう日にはみんなで集まってささやかな宴を楽しみたい。
けど、まだ当分は無理ですね。
集まることはできないけれど、家のなかにこもってもいられない。久しぶりに川崎市の霊園に出かけました。うちのお墓の草取りです。お彼岸に行けなかったので、いまさらではあるけれど。
雑木林に囲まれた広い霊園は、公園とちがって人の気配がなく、のんびりくつろぎます。行き場のないコロナ難民にはこういうところもある。もちろんマスクなしでいい。

びっしり生い茂ったドクダミを抜きつづけること30分、墓石のまわりは一応きれいになりました。
汗を拭き、ずっとしゃがんでこわばった腰を伸ばしながら思います。いつまでこんな作業ができるだろうか。
「墓じまい」ということばが、ふと浮かびます。
知人友人のあいだで、ときどき聞くようになりました。
もうお墓ってのは、代々守り引きつぐようなもんじゃないかもしれない。
ぼくの亡くなった父親は、山梨県に先祖の墓を立て直しましたが、晩年は村と縁が切れ、累代墓も放置した形となっています。本人は教会の墓地に埋葬され、分骨が川崎市の墓に入っている。そういうあれこれを見ると、墓にはもうむかしのような重みがないようにも思います。バチあたりかもしれませんけど。

むかし田舎では、金があればまず家、次は墓、といいました。
家も墓も立派ではない身にしてみれば、故人の供養は昔話に花を咲かせることです。墓参りに熱心ではなくても、死んだ親の思い出話は折にふれてする。最近はそんなふうになりました。
すると新しい発見があります。死んだ親は、記憶を起こして話をするほどだんだん身近になるのです。きっと自分が親の年齢になってはじめて、その年だからわかることがいろいろあるからでしょう。そうか、あのとき親はこんなふうに思ってたんだと。
故人が残されたもののなかに生きる、っていうのはそういうことなんでしょう。
墓じまい、すぐにではなくても、いずれまた考えなければなりません。
(2021年4月20日)