次はアナキズム

 これ、これだ! と、何度もうなずきながら読みました。
「くらしのアナキズム」、人類学者の松村圭一郎さんの本です。ぼくらがどんな暮らしをすべきか、そのために何をすべきか、「国」という枠を超えた方向がアナキズムという概念で捉えられています。

「くらしのアナキズム」
松村圭一郎、ミシマ社

 アナキズムは無政府主義ともいわれ、つい暴力的な動きを連想しがちだけれど、松村さんのアナキズムはまったくちがいます。ぼくらが自分たち自身で力を合わせ、自分たちの暮らしをつくり、その暮らしをつづけることです。国というしくみに縛られずに。
 そんなことできるわけないと思ってしまうけれど、松村さんはいいます。

・・・国家の支配にどう対抗すればよいのか。その抵抗の足場を探す思索のなかで、人類学がふれてきた人びとの姿がひとつの手がかりになる・・・

 国なんてものなしで暮らしてきた無数の社会を、人類学は記録してきました。アマゾンの奥地で、東南アジアの山岳地帯で、松村さんがフィールドとしてきたエチオピアで。どの社会にも、熟成された政治と経済がありました。そうして暮らす知恵が、人類にはあったのです。

エチオピアの”カフェ”(iStock)

 ところが国というしくみができて、ぼくらはいまや国なしではやっていけなくなった。いや、そう思いこむようになった。しかし国という枠組みは絶対なのか、ぼくらをしあわせにしているのかと、「くらしのアナキズム」は問いかけます。

 核心には、人類学の重要な指摘があります。近代国家は多数決でものごとを決めるけれど、それは民主主義を失うことだった。“未開社会”はどこも多数決に頼らず、ものごとを決めるときはみんなの納得を求めるしくみをつくっていた、どちらがほんとうの民主主義だろうか。経済にしても、必要以上に働かない未開社会と、そうではない近代国家のちがいは何なのか。

 松村さんはいいます。いますぐ国をなくすことはできなくても、ぼくらにはできることがある。それは自分の暮らしを国にまかせるのではなく、「立ち止まって考えること」であり、「自分たちで問題にともに対処する無数の小さな拠点」をつくることだと。そういう拠点はすでに日本でもあちこちにできている。くらしのアナキズムは広がっているのです。

 ぼくは思いました。これはまさに浦河ひがし町診療所のことを書いた本だと。「立ち止まって考える」人びとが、国にまかせず自分たちで問題に対処する「小さな拠点」をつくり、すでにできあがった枠組みから「もれ出る」存在になる、それこそは診療所の姿ではないかと。それをアナキズムと名づけると、まるで新しい時代が到来したかのようです。
(2021年12月27日)