美しい国。健康な体。秩序ある社会。
こうしたことは進歩でありよいことであるはずなのに、ぼくはなぜかそこにウソを、いかがわしさを感じてしまう。なんなんだろうなこれはと、かねて思っていたら、「私もそれ、おかしいと思う」という人がいると知りました。
すばらしい。
熊代亨さんという精神科医です。彼の書いた本『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イーストプレス)を読み、わが意をえたりです。

彼はいいます。ぼくらは「健康にまつわるあらゆるものに気を配るあまり、健康が人生の手段ではなく、人生の目的になってしまっている」。ぼくらの人生は「健康に、乗っ取られている」と。
まさにそのとおり。長生きすること、健康でいることは何かをする手段のはずだのに、何をするか、どう生きるかを考えないまま、ただ「健康であれ」「長寿をまっとうしろ」といわれる。それ、ちがうでしょ。熊代さんの主張に、ぼくは救われた気分でした。
「平成時代をとおして私たちの社会はますます清潔で行儀良く、効率的で、コミュニケーション能力を必要とするものへと変わった」。その結果、当然のように、そういう“きちんとした社会”に適応できない、たくさんの人たちをつくりだしてしまった。
そのような人びとに、たとえば発達障害という診断を下す精神科医は、患者の行動は見ても「こころ」を見なくなったのではないかと熊代さんはいいます。

多岐にわたる彼の論点のすべてに同意するわけではないけれど、ぼくがこころを打たれたことがひとつあります。それはこの社会が、子どもをつくり育てるのをますます困難にしているということです。
なぜなら、子どもをつくり育てるということは、「清潔と健康と秩序」の外部で起きることだから。「動物」として生まれる子どもは、たいへんな年月とお金とエネルギーをかけなければ「社会人」にならない。おまけにその対価は年々上昇するばかり。この社会からどんどん子どもが減っているのは、資本主義のメカニズムからは当然のことでしょう。

子どもが減っているということは、たんに政治経済の課題ではなく、もっと根源的なこの社会のあり方の問題ではないのか。
熊代さんは問いかけています。
「動物としての現代人が繁殖できないこの状況は、大きな疎外を含んでいるはずである」
清潔や健康や秩序とはかけ離れたところに、人間の実存はあるということでしょうか。
(2021年3月1日)