ほんとに久しぶりに焚き火を楽しみました。
友人の日本画家、中畝常雄さんが、庭に焚き火用の小屋と柱をつくったから来ないかと誘ってくれたのです。
中畝さんの家は横浜でも里山が残っているところで、三方を森に囲まれています。晩秋の夕方、大きな木の下で煙をくゆらせながら火を焚く。こんなぜいたくはありません。二つ返事で出かけました。

火をおこす前にまず薪拾い。裏山に出かけました。
そこにリンドウの群落があります。キキョウと並ぶ秋の花。夕方だったので花はほとんど閉じていました。去年まで目につかなかったのが、ことしはたくさん咲いている。コロナで山に入る人が少なかったからでしょう。

落ちている木の枝を遊び気分で拾い、持って帰って火をつけます。
焚き火のひとつは、ブリキ缶の自家製コンロで。
もうひとつは、長方形の七輪で。
二つも火をおこしたのは、炎と料理をそれぞれ楽しむためです。
七輪では何種類もの野菜を焼きました。ナスもカブも丸のまま焼き、外側の黒焦げをそぎ落として食べます。カブの丸焼きははじめてでしたが、滋味あふれる甘みに驚きました。

野菜のつぎはサンマです。ぼうぼうと煙をあげながら焼けるサンマは、小さいころ台所で見て以来、こうして食べるとひと味もふた味もおいしくなる。
楽しんでいいるうちにあたりは暗くなり、タヌキが出てきました。あとでぼくらのおこぼれを探しに来るのでしょう。野菜のクズもサンマの骨もぜんぶ燃えちゃうから、何も残らないはずだけど。

若いころ読んだ何かの本に、どんなに聞いてもあきないのは風の音と波の音、とありました。
いまならそれに付け足したい。
いくら見てもあきないのは、焚き火の炎。
あきないというより、見てしまう、見つめてしまうもの。
火は、ぼくらを引きつけます。そして会話の余白となる。
ぼくらのご先祖様も、おなじ炎を見つめていたのではないか。その遠い記憶がぼくらのなかに残っているんじゃないか。
そう思えるほどに、炎とともにある時間は特別なものになります。
(2021年11月7日)