並外れて過激な本です。
ミッキ・ケンダル著「二重に差別される女たち」(川村まゆみ訳、DU BOOKS)。
アメリカの黒人女性、ブラック・フェミニズムによる「ホワイト・フェミニズム」批判の書です。アメリカ社会の、構造化された黒人女性差別を余すところなく暴露している。

というと、ほとんどの人が忌避反応を示すでしょうね。
当然です。その過激さはぼくらの感性を超えていますから。たとえば彼女は「怒りに知識は必要ない」といっている。
・・・礼儀正しく問い掛けて、抑圧から解放された人は誰もいない。その代わり、彼らは言葉や銃弾で戦わざるをえなかった・・・
彼らとは、黒人女性、有色人種や障害者など、白人によって「周縁化」された人びとです。
・・・わたしはそういう人々から生まれた。声は大き過ぎ、怒りは激し過ぎ、何もかもが過剰だった。しかしそれが効果をもたらし、怒りを常に必要としなくてもいい土台を築いた。・・・

(本人のツイッターから)
融和より闘争。包摂より対立。こんな本にはとてもついていけないと思いつつ、でも、読み終えた後味は悪くない。もしかしてこの人、意外といい人なんじゃないか。
本書は、いまのアメリカに住んでいないと十分には理解できない。ぼくもピンとこないところが多々ありました。とはいえ、フェミニズムは普遍的でなければならないという主張は切実です。そのあたりは、巻末にある治部れんげさんの解説が簡にして要をえている。
周縁的だけれど、ぼくのなかに残ったことをひとつ書いておきます。
それは著者のミッキ・ケンダルさんが、祖母の影響を強く受けていることです。「筋金入りのフェミニスト」だった祖母は、どう生きるべきかを教えてくれたといっている。
ああ、この人もまたそうなのかと思いました。才気あふれる女性の出自をたどると、祖母がいたという話はいくつもある。アイヌ女性の知里幸恵がそうです。去年このブログでも紹介した韓国のドキュメンタリー映画監督、イギル・ボラさんもそうでした。

祖母から母へ、母から娘へ、そういうつながりは厳然とあったはずだのに、これまでぼくらはよく知らなかった。語られることのない物語だったからでしょう。
女性が本を書き、映画を撮り、自分自身を語るようになって、こうした豊穣な物語の系譜に光が当たるようになったのではないか。
過激な本をまともに受けとめることのできないぼくは、本筋をそれてそんなことを考えていました。
(2021年12月15日)