言語の流れ

 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 方丈記の冒頭になぞらえるなら、言語についてはこうなるでしょうか――人の使うことばの流れは絶えずして、しかももとのことばにあらず。
 言語哲学者のダニエル・ヘラー=ローゼン教授はいいます。言語は、変化するからこそ残っているのだと(『エコラリアス』、関口涼子訳、みすず書房)。
 教授の著作にはずいぶん刺激を受けました。そのひとつに、ヘブライ語の「再生」があります。

 ヘブライ語はイスラエルの公用語。聖書のことばとして知られています。いまから3千年前に書かれた聖書はヘブライ語だった。でも、この「聖書ヘブライ語」はいまイスラエル人が使っている現代ヘブライ語とは似て非なるもの。どちらも「ヘブライ語」だから、しろうとはユダヤ人が3千年にわたっておなじことばを使ってきたと勘ちがいしてしまう。でも言語学者から見れば別の言語です。そんなことをいうと、イスラエルのナショナリストは怒るかもしれないけれど。

 さてこの3千年のあいだに何が起きたか。これはもう古代史から現代史に至る雄大な物語の数々が出てきます。要約できるようなものではない。でも言語という側面に焦点を当てると、いくら文字が残っていても言語そのものは絶え間なく変わってきたことがわかります。

 ヘラー=ローゼン教授はいいます。
「言語はいかにしても同じ形でいることはできず、好むと好まざるとにかかわらず、「毎日我々の手からこぼれ落ちていく」のだ」
 またこうもいっている。
「言語の一貫性は、その前に存在した様々な言語と関係を結んだり離したりする忘却と記憶の形成の中にある」

ヘブライ語の聖書 Pixabay

 忘却と記憶の形成。
 ことばはそのなかを流れてゆくものではないか。なんだかぼくのなかでは方丈記の無常観につながります。

 じつはぼくがほんとうに興味を持っているのは、ヘブライ語とおなじように、古代ユダヤ人と現代イスラエルのユダヤ人もまた似て非なる人たちなのではないかということです。
 この、イスラエルの歴史学者シュロモー・サンド教授の主張についてはいずれ稿をあらためましょう。
(2021年2月23日)
(タイトル上の写真はたぶんカワズザクラ、22日横浜)