なぜバイデン大統領はアイルランドの詩を引くのか?
たんにアイルランド系だからではありません。
吃音のためです。かれはどもりです。
どもりを治したい一心で、10代のころずっと鏡の前に立ちイェイツやシェイマス・ヒーニーの詩を唱えつづけた。
吃音が治ることはなかったけれど、彼のなかには多くの詩が残った。

この物語を伝えるアトランティック誌の長文の記事で、ぼくははじめてバイデンという人の内面にふれた思いがしました(What Joe Biden Can’t Bring Himself to Say. By John Hendrickson, January/February 2020, The Atlantic)。
取材した同誌のヘンドリクソン記者は、やはりどもりです。バイデンさんよりもひどい。どもりがどもりを取材し、その内面をたどる秀逸な記事でした。

どもりは多くの場合、どもりを隠します。みんなにいじめられるから。教室で発言せず、友だちを避け、孤独な人生を送る人もいる。バイデンさんもかなりのいじめにあっているけれど、どうにかやり過ごしてきた。
彼のどもりは注意して聞かないとわからない。でもときどき出てきます。「私は・・・」といいかけて詰まり、「わ、わ、わたしは」のようになる。英語では「I-I-I don’t remember」。
あるいは特定の音が出せず、間があいたり、ほかのことばに置き換える。
大統領選挙で、あるときバイデンさんは「オバマ前大統領は・・・」といいかけて「お」の音が出ず、ぐっと詰まって「マイ・ボス」と言い換えました。吃音者がよくやることです。メディアはこれを、「バイデンはオバマの名前も思い出せなかった」とからかった。でもヘンドリクソン記者は、それは記憶ではなく吃音のせいだとわかる。
どもりは、小さいときからそんなふうにからかわれてきました。

バイデン大統領が詩を唱えたのは、声を出す訓練でした。不思議なことに、かなりひどいどもりでも歌は歌えることがある。詩を暗唱できる人もいる。単語ひとつひとつを発音するより、一定のリズムで文全体を唱えるのがいいのでしょう。そのどこで間を置くか、どこで息をつぐか、バイデンさんは正確に覚えきっています。
ヘンドリクソン記者は、吃音はバイデン大統領に他者への共感をもたらしたといいます。
その一方で、やはり彼には吃音を「克服する」という考え方が残っている。今日、少なくともヘンドリクソン記者の周囲では、吃音は克服するよりそのスティグマを取りのぞくこととされています。
どもらないより、うまくどもる。
吃音をオープンにする。
そっちの方向に、バイデンさんにはもう一歩踏みこんでほしいという気持ちが記事から伝わってきます。
(2021年1月25日)