ぼくらは何のために生きているのか?
いや、ちょっと大げさな問いでしょうか。言い換えましょう。
ぼくらはコロナの感染防止のために生きているのだろうか?
「そうだ」と答える人はあまりいないでしょう。でもいまの日本では、誰もがコロナ感染防止に必死になっている感があります。何のために生きているのかを忘れて。
そんなことを考えてしまうのは、コロナのもとで自由を謳歌するイギリスの記事を見たからです。レストラン、パブは再開され、若者たちがマスクなしでライブに殺到する。サッカーの応援で密になる。それなくして何の人生かというかのように(Britons, Unfazed by High Covid Rates, Weigh Their ‘Price of Freedom.’ Aug. 28, 2021, The New York Times)。

イギリスはコロナがなくなったわけではありません。いまも1日に3万人の新規感染者、100人以上の死亡者が出ている。人口比で考えれば日本の3倍。それでもイギリス人は「取りもどした日常」を手放そうとしない。
「規制」と「自由」のバランスを考えたとき、日本にくらべれば圧倒的に自由がある。
地下鉄に乗っても、乗客の半分はマスクをしていないといいます。

コロナに関して、「イギリスは諸外国の近未来」という言い方をよく聞きます。諸外国が、いずれはイギリスとおなじようになるという意味です。
ワクチン接種が早かったイギリスは、国民の80%近くが接種をすませました。そこでデルタ変異株が広がっているのは、ワクチンをしていない若者が多く、していても感染する「ブレークスルー」が増えているから、そして接種から半年以上たってワクチンの効果が低減しているから、といわれます。
でも重症者は少ない。入院治療は1月12日のピーク時には4583人だったのが、8月には4分の1以下に減り、医療体制には余裕があります。この余裕と、もう閉じこもっているのはいやだという市民の規制疲れがいまの自由をもたらしているのでしょう。

ロンドンのキングズ・カレッジのコロナ専門家、ティム・スペンサー教授はいいます。
「かなりの感染があっても、われわれはあまり気にしない。それはみんな自由の代償だと思っているからでしょう」
感染は「自由の代償」なんていう考え方は、日本文化からは出てこないような気がします。
そこにはやはり、人は何のために生きるかという問いがあるかないか、そのちがいがあるような気がするのですが。
(2021年8月29日)