ちょうど1年前、ぼくはひとつの論文に出会いました。
アトランティックという雑誌に掲載された、「75歳で死にたい」というタイトルの論文です。書いたのは、ペンシルベニア大学の医学者で生命倫理学者でもある、エゼキエル・エマニュエル博士です(Why I Hope to Die at 75, Ezekiel J. Emanuel, October 2014, The Atlantic)。

たまたまコロナ関連の記事を探していて、この論文に出会いました。書かれたのは7年前の2014年ですが、内容はいまでも新鮮です。この1年、ぼくはずっとこの論文のことを考えてきました。
エマニュエル博士はいいます。
「死ねば私は大事なものをすべて失う。けれど長生きもまた多くを失うことだ」
健康で長生きできるならそうする。けれど現実はそうではない。
「身体は弱り力はなくなり、私は確実に失われてゆく・・・世界とのつながりをなくし、人びととのかかわりも記憶も変わり、私は私でなくなる」

自殺や安楽死を選ぶのではありません。長生きしようという熱意が、自分にはないといいます。なぜか?
たしかに平均寿命は延びたが、それは「健康な年月が長引く」ことにはならなかった。衰える過程、「死への過程が長引く」ことになっただけで、私たちは延々と衰弱し、死ぬ過程を長引かせているだけだから。
がん治療を専門とするエマニュエル博士は、終末期をよく知っています。がんだけでなく、心臓病や認知症などの疾病や症状が、高齢者の人生からどれだけ多くを奪うか。
75歳。そこまで生きればいい。
ではそこでどうするか。

エマニュエル博士は、75歳になったら「十分な理由がないかぎり、医者にかかることも検査や治療を受けることもしない」といいます。
大事なのは、「長生きのため」を理由にしないこと。「長生きのために長生きする」のは自分の生き方ではない。
「延命措置は受けない。どんな症状でも、その症状が起きたらそれに従って最期を迎える」
そこまでいえるのは、自分はすでによき人生を生きたという思いがあるからでしょう。

ぼくは何度もこの論文を読み返し、そこに書かれていることを思い返しました。
自分もまた、かくありたい。
その一方で思います。75歳を過ぎたらしだいにそのような思いが薄れてゆくのではないか、長生きのために長生きするようになるのではないか、そのことをひそかに恐れます。
そのような事態に、どう抗うことができるのでしょうか。
(2021年4月12日)