音楽を見る。
比喩だと思っていたことに、挑戦している人たちがいます。
アメリカ手話で音楽を表現する、という試み。いやちょっとちがうか、アメリカ手話と音楽が共演する、そこで何が起きるかという実験ですね。
現代芸術の最先端かもしれない。
あちこちでよく見る手話コーラスではありません。ろう者とコーダ(CODA、Children Of Deaf Adults、ろう者の両親のもとに生まれた聴者の子)という、ともに手話のネイティブである二人の黒人デュオによる“手話音楽”の話です(Making Music Visible: Singing in Sign, By Corinna da Fonseca-Wollheim, April 9, 2021, The New York Times)。

この手話音楽を演じているのは、マービン・プリモ=オブライエンというろう者の男優と、ブランドン・ケイゼン=マドックスというCODAのダンサーの二人。たとえば1970年代のヒット曲「夜汽車よジョージアへ」に合わせて、手話で音楽を表現しています。
歌を歌っているのも黒人なら、それとともに手話を演じるのも黒人、おまけにその手話はBASL、黒人アメリカ手話。

肝心なのは、手話が歌詞の翻訳ではないということです。
音楽の“キャラクター”を手話の“動き”にする、ってことらしい。
よくわからないけれど、でも音楽があって、歌があって、そこに舞うような、歌うような手話があるとき、それはただのジェスチャー、振り付けとはまったくちがう、動く詩のような表現になっています。
生まれつき手話を使っている、ネイティブ・サイナーと呼ばれる人たちはいいます。
「手はそれ自体に感情がある。こころがある」

ネイティブ・サイナーの手話の豊穣は、聴者にはわからない。
一方、ろう者は声の豊穣がわからない。
わからないんだけれど、どこか裏口の回路をとおして通じあっている。通じあえる人たちなんですね。
ここには、「手話コーラス」をはるかに超えた表現の冒険があります。
(2021年4月10日)