いまは昔の男たち

 先週、アメリカで同性婚が認められると書きました。
 でも、どうも「書けた」という気がしない。気になって翌日また考えました。そして思い至ったのは、同性婚も異性婚も結婚を当然のこととしているけれど、もっと自由に考えたかったということです。
 結婚しないという選択もある。いやそもそも結婚って誰がいつ、どう決めたのか、ぼくらが結婚について持っているイメージはどのようにつくられたのか。

 アメリカ議会の議論は、もともと白人と黒人の結婚を禁止する十九世紀の法律からはじまっています。時代とともに異人種間の結婚が当たり前になり、いまでは同性間の結婚も当たり前です。社会の変化を、法律が追いかけているのでしょう。

 結婚の形は広がったけれど、一貫してあったのは「人間は結婚するのが当たり前」という考え方でした。多くの人がほとんど無意識に、結婚しないのはおかしい、異常だとすら思っている。そういう偏見に抗して、「シングルという生き方」がアメリカでも韓国でも現れていることをこのブログでも書きました(2022年4月2日、10月27日)。
 同性でも異性でも、結婚してもしなくてもいい。多様な生き方が多くの社会で認められるようになっている。その多様性が、男性支配のモノトーン社会から女性が離反した結果だとすればさらに好ましいことです。

 そんなことを考えながら、去年亡くなった作家、瀬戸内寂聴さんのことを思いました。
 瀬戸内寂聴さんは結婚して子どももいたけれど、家を出て作家の井上光晴と不倫関係になるなど奔放に生きています。その生き方を、光晴の娘でやはり作家である井上荒野さんにあれこれ話していました(11月11日朝日新聞)。
 荒野さんによれば、寂聴さんの魅力は「圧倒的に自由だったこと」です。
「最初から強かったのではなく、強くあろうとした。娘を置いて家を出たこと、文壇で批判されたこと、一つ一つ戦うたびに強さを獲得していった」
 その寂聴さんに荒野さんは聞きました。歴代の恋人のなかで、自分の父、井上光晴は何番目だったかと。寂聴さんはいったそうです。
「み〜んな、つまんない男だったわ」
 いかにも作家らしい。ことばが踊っている。
 どの男にも夢中だった。いま思えばつまんない。だけど、と、幾重もの含みがひとつのことばに宿っている。
 そういうことがいえる人って、ほんっとに自由に生きたんだろうと思います。
 結婚なんて、もうどうでもいい世界で。
(2022年11月21日)