さあ歩こう

 運動が身体にいいと、きのう書きました。
 運動にもいろいろあるけれど、多くの人が取り組むのは歩くこと、ウォーキングでしょう。ぼくも歩くとやはり体調がいいと感じます。でも、歩きには目先の利益を超えた深い意味があるとひとりの作家が指摘しています(Whatever the Problem, It’s Probably Solved by Walking. By Andrew McCarthy. March 25, 2023, The New York Times)。

 歩きの哲学を語るのは、アンドルー・マッカーシーさん。30年近く前に巡礼でスペインを800キロ、歩いて横断しました。以来、自分は“歩き人”になったといいます。
「1か月におよぶ歩きで・・・私は変わった。巡礼の一歩一歩が私を作りあげ、私はこの世界での立ち位置を変えた」
 何がどう変わったのか。歩きには何があるのか。

 マッカーシーさんは歩きをめぐる古今の賢人のことばを引いています。
 ヒポクラテス「歩きは最上の薬だ。暗い気持ちのときには歩こう、それでも暗かったらもっと歩こう」
 キルケゴール「歩くことで切り離せないほど深刻な思いはない」
 ディケンズ「もしも遠くまで速く歩けないなら、私は崩れ滅びてしまう」
 J・K・ローリング「夜の彷徨ほどアイデアをかきたてるものはない」
 ジャンジャック・ルソー「歩くことによって思考は活発に動き出す」
 ニーチェ「すべての真に偉大な思考は歩きのなかではじまる」
 ほんとにニーチェがそんなこといったのかな。

 マッカーシーさん自身は、こんなふうにいっています。
「レベッカ・ソルニットは歩き、大地を通して自分の身体を確かめるといった。そのようなやり取りをしながら私たちは歩き、そして自分に還る」
 歩くのは、外に出ることではなく何かに入っていくことではないか。そういう意味のことを彼はいっている。歩くことで、内省の世界に入るということでしょうか。それが自分に還るということなのか。

 ひるがえって自分を見ると、ぼくは歩きながら何も考えていない。歴史上の偉人どころか、マッカーシーさんにもとても及びません。世界での立ち位置を変えるなんてありえない。でも、ひょっとして、あるいは、と思わないわけでもない。「何も考えていない」ってことが何かの新しい入口になるのかもしれないと。日常の思考を離れ、別の思考に移る。そういうことが意図せずに起きるのかもしれない。ずっと歩きつづけていれば、いつか、どこかで。
 ないかな、そんなの。
(2023年4月12日)