ダメでもほめる

 きのう、どんなダメな人でも、無理してでもいいところを見つけてほめるのがいいと書きました。
 これは序章です。本題はキシダさんという人でした。

 ぼくの周囲では誰もキシダさんをほめません。ダメだ、無能、無節操と口を極めてけなす人もいる。無理ないですね。突然アベさんの国葬をやったり、国の安全の基本方針を変えたり、防衛費の税金を増やそうとしたり、いかがわしい人たちを大臣に任命しては解任したりをくり返したり。何をやってもろくなことはない、ダメということばしか聞こえません。支持率も最低の31%にまで落ちたとか。
 でもぼくはそういうダメといわれつづけている人だからこそ、ほめてやりたい。無理してでもいいところを見つけてやりたい。そうするとたくさんの人からひどく怒るだろうと覚悟はしています。お前は何を考えているのか、キシダがいいだなんて、ついに認知症がそこまで進んだかといわれてしまう。でも、ほめます。

 29日の朝日新聞の記事を見て、そう思いました。
 旧統一教会の対策で新しい法律を作ったとき、与野党がめずらしく歩み寄ったそうです。いい話だと思いました。そういう政治駆け引きの裏にはいろいろ思惑もあるし、そんなきれいな話じゃないとは思う。でもいいと思ったのは、キシダさんの前には与野党歩み寄りなんて考えられなかったからです。
 キシダさんの前の前の人は、野党をバカにしていた。というか、自分の意に沿わない人を攻撃し、分断をあおることで人気をえていました。アメリカのトランプさんとおなじです。野党だけじゃなく「こんな人たち」の選挙民も、自分に反対する人はみんなサヨク、リベラルの悪、消えてしまえ、消してしまえといわんばかりでした。この情動、本質はヘイトですよね。

 あのころは、なんだか息が詰まるようでした。
 それにくらべればいまの“無能、無節操”のほうがずっといい。
 朝令暮改っていうけれど、逆にいえば朝令で自分の考えをさっと出し、暮改でさっと引っ込める。そういう形でキシダさんは国民の前に議論(?)の過程を示していた。これは評価してもいいんじゃないか。そういうふうに、無理してでもいいところを見つけたい。

 前の前の人は、検事総長も日銀総裁も国税長官もイエスマンで固めようとし、学術会議まで自分の思いどおりに作り変えようとしました(検事総長については未遂だったけれど)。プーチン的な世界の息苦しさがありました。あの人とキシダさんはだいぶちがう。ぼくはそこをほめてあげたいと思っています。
 みんながダメだといういまだからこそ。
(2022年12月30日)