リベラルな愛国

 ジョン・レノンがこんなふうに語られるなんて。
 ニューヨーク・タイムズの名コラムニスト、デビッド・ブルックスさんの「ウクライナ戦争論」。ここで彼はレノンの名作「イマジン」の歌詞を引いています(The Triumph of the Ukrainian Idea. By David Brooks. Oct. 6, 2022, The New York Times)。

・・・イメージしてみよう、国なんてものがないことを。かんたんだ。そのために生きることも死ぬこともなく・・・
 無数の人が「国のために」と死ぬけれど、オレはそういう世界に生きたくない、とレノンは歌った。愛国心というものに背を向けて。

 愛国心、あるいはナショナリズムと呼ばれる息苦しい生き方、排他的で抑圧的な力による支配を、リベラル派はきらいます。
 でもねとブルックスさんはいいます。
 ナショナリズムにはもうひとつの形がある。開かれた、前向きでリベラルなナショナリズム。
 リベラルなナショナリズム?
 そんなものあるはずがないと反射的に否定したくなるけれど、その稀有な例がウクライナではないかというのです。

 ウクライナの人びとを結びつけ、強大なロシアに立ち向かう力を与えているのは、自由と民主主義という普遍的な価値です。それに加え、ゼレンスキー大統領はくり返しこれはウクライナを守る戦いだともいっている。不変の価値とウクライナ固有の価値。この両方が重なり合い、補完しあってウクライナを駆りたてている。

ゼレンスキー大統領

「アンチ・リベラルなのはプーチンやトランプのナショナリズム。リベラルなのはゼレンスキーのナショナリズムだ」
 ブルックスさんはさらにいいます。
「ゼレンスキー大統領は民主主義のためだけではなく、ウクライナのために戦っている。ウクライナの文化、大地、人びとと言語のために。この戦争を象徴するのは、ウクライナ国旗だ」

 リベラルな、開かれたナショナリズムは、単一の固定された物語にしがみつかない。それは多くの物語を生みだし、つねに新しく生まれ変わろうとします。この多様性こそがリベラルのいのちでしょう。
 多様性のなかには、“国というもの”を否定するジョン・レノンも含まれます。
 もしもいつかこの戦争が終わったら、ゼレンスキー大統領はきっと「イマジン」を口ずさむだろうとぼくは想像しています。
(2022年10月7日)