依存症の迷路・1

 そうかー、そうだったのか。
 深い森からの出口が見つかり、一気に視野が広がった気分です。
 浦河の精神科がこの40年、苦労してくりひろげてきたあれこれは、やっぱり現代世界の最先端だった。そんな思いがぼくの頭にネオンサインのように輝いています。
 例によって妄想レベルといわれるだろうけれど、長年解けなかったパズルがカチッという音とともに解けた話をしましょう。

 何が起きたのか?
 いまはまだまとまりのない考えの断片が散らかったままですが、発端は依存症です。依存症からはじまって精神科全般、そして現代思想にまでぼくの妄想は広がっています。きっかけとなったのは、薬物依存専門ジャーナリスト、マイア・サラヴィッツさんのニューヨーク・タイムズへの寄稿でした(Codependency Is a Toxic Myth in Addiction Recovery. By Maia Szalavitz. July 8, 2022, The New York Times)。

マイア・サラヴィッツさん
(本人の Twitter より)

 サラヴィッツさんの論考は、アメリカ社会にはびこる「共依存」という概念を批判しています。依存症の人は周囲の人と共依存に陥ることがあり、そこから抜け出さなければいけない、という考え方があるけれど、意味がなくむしろ有害で回復をさまたげるという主旨です。
 共依存は、1980年代に出たベストセラー『共依存症 心のレッスン』(Codependent No Moreの邦訳)などで広がり、日本でも流行しました。精神医学ではまともに取りあげられることのない概念で、いまの先進的な依存症回復プログラムはそれとは無関係な「ハームリダクション」という考え方で進められています。

 共依存なんて、そんな古い概念がいまだにはびこっているのかと、ちょっとがっかりしました。でもアメリカも、社会のあちこちに”どうしようもない部分”をたくさん抱えているんですね。

 さてこの問題を論じるサラヴィッツさんの論考で、ハッとする一文がありました。
「依存の中心問題は依存ではない。その核心にあるのは強迫性の行動だ」
 うーむ。たしかにそうだ。強迫性。
 依存症はかつては「中毒」と呼ばれていましたが、いつのまにか依存症なんていう当たりの柔らかいことばになった。でも中毒って呼びたくなるときがある。だから先日このブログでマリファナの害を書いたとき、ぼくは「中毒の商人」という題で無意識に中毒ということばを使ったのでした(6月17日)。

 依存というと、なんだか理解可能な気がする。中毒も許容範囲。でも強迫性というと、そこには理解不可能のニュアンスがある。この「理解不可能」こそが大事なんじゃないか。
 ここからはじまったぼくの散らかった思考を、次回以降もう少しまとめてみます。
(2022年7月11日)