依存症の迷路・5

『現代思想入門』は20世紀フランス哲学の巨人、ジャック・デリダとジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの3人を扱っています。
「この三人で現代思想のイメージがつかめる!」という著者の千葉雅也さんは、3人の足跡を “脱構築”という概念を通して、ひとつのつながりとして提示しています。大胆不敵というか、恐ろしい冒険のようだけれど、読む側としてはすなおに頭に入る。そうか、こういうくくり方があるんだと腑に落ちました。

 鍵となる概念、脱構築とはいったい何か。
 ぼくはざっくりと、既成の常識や概念にとらわれないこと、「それってほんとにそうなの?」と「あらためて考える」ことだと思っています。
 でも千葉さんはプロだから、もっと精密にこう書いている。
「物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということ」
 むずかしく響くけれど、具体例をあげるとわかりやすい。

 たとえばアルコール依存症。これについてはよく「本人の意志が弱いからだ」という人がいます。その根底には、意志が弱いから飲んでしまう、それは悪いことだという概念と、意志が強ければ飲まない、それはいいことだという、2つの対立する概念があります。
 脱構築は、これを「いったん留保」する。
 意志が強ければいいって、それ、危ないんじゃないの。意志の弱い人はどうすればいいですか。そもそも意志って、ただの刷り込みではないのか、などなど。
 やがて、意志の問題として捉えていたら依存症に対処できない、という考え方が出てきます。

 依存症の「治療」もそうです。
 多くの人は、依存症を治療するのはいいことで、進めるべきだと考える。
 でも浦河的にはそう単純ではありません。医者がいくら治療しても依存症の出口は見つからない。「医者がする」のではなく「本人が考える」、それも「仲間とともに考える」ようになったとき、ようやく回復への可能性は開ける。そんなふうに、治療は脱構築されてきました。

 依存症だけでなく、さまざまな分野のさまざまなレベルで、浦河の精神科は無数の脱構築をくり返し、正統派の精神医学から、そして多数派の精神保健から逸脱してきました。
 千葉さんはいいます。
「脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられずに安定していたいという思いに介入するのです」
 浦河の精神科は主流を、多数派を、秩序を揺さぶりつづけています。
(2022年7月15日)