改憲の先にあるもの

 先月、ワシントン・ポストは日本の改憲を支援すべきだという社説を出しました。
 安倍晋三元首相が狙撃され死亡したことに関連し、彼の悲願であった憲法改正に言及して、9条改正への動きをアメリカは支援すべきだと訴える内容でした。

 日本の保守系メディアは、アメリカの有力紙が改憲を支持したと持ち上げたようですが、ぼくの受けとめ方は少しちがいます。国際社会の「常識」が、日本はすでに軍隊を持っているのにその軍隊がないふりをするのは無理でしょと、当たり前のことを当たり前にいったにすぎず、焦点はむしろ日本に「改憲を求めた」のではなく「国際貢献を求めた」ことだと思ったのです( The U.S. should support Japan’s move to legitimize its military. By the Editorial Board. July 11, 2022, The Washington Post)。

 おなじことじゃないかといわれるかもしれない。
 憲法を改正し、軍隊を持てるようにし、その軍隊で国際貢献をする。これは首尾一貫した道筋で、ワシントン・ポストも日本の保守メディアもいっていることはちがわない、ということになるかもしれない。
 けれど、どういうわけかぼくには違和感があります。この違和感はなんだろう。
 考えて、思い当たりました。それはきっとポスト紙のいう軍隊や国際貢献が、日本の保守派のいうそれとかなりちがうのではないかということです。おなじことばを使っているけれど、かけはなれたイメージ。

 ポスト紙のイメージは容易に想像がつきます。
 おそらくアメリカやヨーロッパの軍隊や国際貢献を想定している。日本が、それとおなじような軍隊を持ち、おなじような国際貢献をはたしてほしいと願っている。一方日本の保守派、改憲派が想定する改憲後の軍隊、国際貢献は、かなりちがうものになるのではないか。そのことへの強い懸念が、同床異夢ということばを思い起こさせます。

 ぼくは自衛隊を否定するわけではありません。すでにあるものを「ない」と言い張ることはできない。その自衛隊の一般隊員は、多くが「いい奴ら」であるにちがいない。けれど組織の上に行くほど「いい奴ら」は少しずついなくなり、「危ない人たち」が増えるのではないか。旧日本軍とおなじように。それがそのまま憲法で認知されることへの危惧。

 ぼくらの社会は、長く自衛隊を認めず日陰の存在として扱ってきました。軍隊とは、軍事力とは何かについて、ほとんど議論をしてこなかったし、武人を文人がコントロールする経験も積まなかった。そういう負の歴史を思うと、改憲はむしろかんたんで、その先にある軍事力の抑制と発動を習得するまでに、真の長い道のりがあるだろうという気がします。
(2022年8月12日)