浮遊の精神科・2

 浦河の精神科が現代思想とつながっているとぼくが書くのは、浦河のヨイショではありません。デリダやフーコーの名で権威づけするためでもない。だいいち浦河の人たちってそんなにすごくないし、権威なんてものを嫌悪しますから。
 じゃあ何でこんなことを書くのか。
 それはぼく自身がたえず引きこまれるからです。
 浦河がなぜこうなのかの、もやもやごちゃごちゃが現代思想のことばと思考でスパッとクリアな形になっていく瞬間がある。一方で、現代思想のことばと思考が、浦河の人びとの精神病という経験をとおして、はじめてぼく自身のなかに入りこんでくるという感覚があるからです。

 千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んで、大いに刺激されたことのひとつが、「話し言葉」と「書かれたもの」をめぐる考察でした。
 ことばのこれら二つ形についての考察が、ジャック・デリダの思想の根底にあると千葉さんはいいます。それをぼくなりに翻訳すると、そこでは「話し言葉より、書かれたものの方が信頼できる」という古来の常識が揺らいでいる。声の方が、話の方が、文書より上かもしれない。上というより真に伝わるというべきか、対話を開くというべきか。
 専門的なことばでいえば「パロール/エクリチュールの対立」、デリダはそこを掘り崩していった。

 話は飛びますが、ここからぼくは、なぜ浦河ひがし町診療所には無限に「話し言葉」があるのに、「書かれたもの」がないのか、なぜ精神科医の川村敏明先生は比類なき話術を駆使しながら、いっさい本や論文を書かなかったのか、その哲学的な意味を了解したのでした。

浦河ひがし町診療所

 浦河の精神科は、あらゆるやり取りの基本を「話すこと」においている。書かれたものはほとんど活用されず、さしたる意味をもたない。あくまで話す、聞く、話す。対面で。
 このけれん味のなさ。
 考えてそうしたわけではありません。精神病という現象に直面した人びとが苦労を積みあげたところで、そうせざるをえなかったのです。
(2022年7月19日)