浮遊の精神科・4

 思索の巨人、ミシェル・フーコーは1984年に亡くなりました。
 新聞に死亡記事が載ったのをいまでも覚えています。すごい人がいなくなったとは思ったけれど、何がどのくらいすごいのか、ぼくにはわかっていなかった。幾つもの著作を読んではいたけれど、とても歯が立ちませんでした。
 そのフーコーの未刊だった最後の著作『性の歴史 Ⅳ』が、4年前に出版されたと千葉雅也さんが『現代思想入門』で書いています。この著作で、フーコーの思想に新しい解釈が加わりました。

 浦河の精神科とのからみでとても興味深いのは、晩年のフーコーが「近代的な個人」よりも古代ギリシャ・ローマの生き方に回帰しようとしていた、という見方です。その目ざしたところを、千葉さんは自己流の読み方だと断りながらこういっています。

「現代社会において大規模な生政治と、依然として続く心理的規律訓練がどちらも働いているのだとすると、ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います」

 これ、こういう文章になれていないとまったくわからないでしょう。
 だからぼくは、曲解にすぎるかもしれないけれどこんなふうにいってみます。

「ますます管理と統制が強まるいまの世の中で、少しでも自分を大事にする人生を送りたいと思うなら、常識だの規則だのをできるだけスルーし、あまりストイックにならず、その場その場をしのぐ古代人的な生き方を目ざすのがいいんじゃないか」

 これがフーコーのいおうとしていたことだといったらバツ、まったくの的外れと無視されるかもしれない。でもぼくが「こうなんじゃないか」と言い立てるのは、これがほぼそのまま浦河の当事者の生き方になるからです。全員がそうではないし、ある種の理想ではあるけれど、こういう生き方が目ざされているという実感がぼくのなかにはあります。
 しかもその生き方は、精神病という「自分ではどうすることもできない困難」に向き合いつづけたところで出てきたものです。人間ってどうあがいてもこういうふうである以外の生き方はできないんじゃないかという思いすら、そこにはあります。

 フーコーは、古代ギリシャ・ローマを念頭においたかもしれません。
 でも浦河では、縄文時代が意識されるようになりました。この二つはだいぶ隔たりがあるけれど、「近代」や「個人」から逃れるベクトルが働いていることでは一致していると思います。
(2022年7月21日)