眠れない夜には

 羊を数えようと思ってもイメージがわかない。
 寝つけないときぼくはもう、ただあきらめることにしています。でもこういうのがあったかと目がさめました。
 海事予報を聞く。
 BBCの「ラジオ4」が放送するイギリス周辺の海の気象予報です。予報は1日4回、1回15分です。それを何回分もまとめ、4時間の長さに編集したものがユーチューブにアップされている。これを聞いてしあわせな眠りにつくというのが、イギリスの作家、グレース・リンデンさんのアイデアでした(A Secret for Falling Asleep So Good It’s a British National Treasure. By Grace Linden. Feb. 14, 2023. The New York Times)。

 以下のサイトでこの放送を聞くことができます。

 放送は「では気象庁発表の海事予報です」とはじまる。そして「南方ではまもなく低気圧が接近」といった概況につづき、各地の予報が淡々と読みあげられます。
・・・ワイト島、ポートランド、ビスケー。晴れ、ときどき雨。プリマス、一時かなりの雨。南東諸島、1000(ヘクトパスカル)、変わりやすく・・・

 専門的な用語もあります。「逆の風(backing winds)」は反時計方向の風、「曲がる風(veering winds)」はその逆、「まもなく低気圧が通過」の「まもなく(coming soon)」は6時間から12時間以内、など。
 そういうディテールは、素人にはどうでもいい。延々とつづく単調な予報は「とても詩的で、しかも催眠効果がある」とリンデンさんはいいます。眠れない夜にはうってつけでしょう。

BBCラジオ4「海事予報」番組表示

 とはいえエッセーの後段には、「イギリスの宝」であるこの放送がなくなろうとしていると書かれています。1911年にはじまった海の気象予報は長年、漁業や海運に携わる人たちの生命線でした。それがいまはもう聞く人がほどんどいない。インターネットの時代、気象予報のラジオ放送は遠からずなくなるだろうとリンデンさんはいいます。やむをえないけれど、それは私たちがなにか大きなものから遠ざかることになりはしないか。
「太古の人類は、洞窟を出て海に向かい冒険をはじめた。海に出た人たちとおなじように、私はしばしば夜中に目を覚まし、大いなる深みを思い眠りに落ちてゆく」

 北の海ではどんな風が吹いているのか。南の海では雲が晴れたろうか。
 陸の上にいたらどうでもいいことです。でもそういう放送を聞いていると、というか、そういう放送を無意識に耳にしてると、やがてどこかで星を頼りに太古の海を渡った人びととつながることができる。そういう夢を見られるかもしれません。
(2023年2月15日)