節を曲げつつ

 ウソと陰謀論に対処するには、人に会うのが大事だと書きました。
 これでは議論のつながりが見えませんね。もうちょっとそこを考えてみます。
 人に会うとは、ことさら自分とはちがう人に出会い、当たり前だと思っていた価値観、世界観を揺さぶられることです。外国人に会うのもいいし、旅をするのもいい。ぼくの場合はろう者や精神障害者、先住民のようなマイノリティとの出会いが貴重でした。

 たとえばろう者と出会ったことで、耳が聞こえないのを不幸だと思うのはこちらの勝手な思い込みだと知りました。ろう者はろう者と結婚する人が多いし、ろうの子どもがほしいという人もいる。彼らの強いつながりを見ると、聞こえる人が幸福だとはけっして思えなくなります。
 精神障害者は別な形でぼくの価値観を揺るがしました。その話は長くなりますが、ここではミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で紹介した「別種の狂気」に触れるだけにしておきましょう。これは精神障害者が狂気の人であるという健常者は、別種の狂気に囚われているという意味です。あるいは、ぼくらは狂人を監禁しても自分が狂人でないという確信が持てない。
 少なくともぼくは精神障害者と出会うことで、自分がいかに外見や外聞を気にするうわべだけの存在かを知りました。

 自分とはちがう人びととの出会いによって、当たり前と思ってきたことが当たり前でなくなり、世界観が引っくり返される。この世界はぼくが思っているようなものではないかもしれないと、つねに思うようになりました。かんたんにいえば、かんたんに自信を持ってはいけないということでしょう。
 それがウソや陰謀論に対する免疫力になります。ジャーナリストとして生きのびることができたのは、狭い視野を広げてくれたマイノリティのみなさんのおかげとふり返っています。

 加えて、ぼく自身の経験から思うようになったことが2つあります。
 ひとつは、出会うのは生身の人間がいいということ。文字や映像は大事だけれど、それでどれだけ学んでも生身の人間の複雑さやゆたかさにふれることはできない。「学び」より「出会い」、これがぼくを鍛えてくれました。
 もうひとつ、「当たり前」がくつがえされるのを楽しみたいということ。ぼく程度の人間が持つ信念だとか信条なんて、ちっぽけなものです。そんなものをいつでも曲げる節操のなさ、一貫性のなさがいいんじゃないか。そうすることで世界の多様性、複雑さを楽しむことができる。

 ウソや陰謀論を信じる人たちは、揺るぎない信念の世界に生きています。その信念は訂正、修正ができないという意味で精神科の妄想とよく似ている。おなじ妄想を抱くなら、かんたんに放棄できる妄想がいいですね。でもそれじゃ妄想とはいえないのかな。
 こういうことをいうぼくもまた、偏っているしおかしいという自覚はあるのですが。
(2022年11月8日)