精神医学と火事

 しばらく前、アメリカの精神科医の本がニューヨーク・タイムズに紹介されました。一言でいえば「研究は進んだが、臨床は変わらない」でしょうか。“生物学的精神医学”の行き詰まりを認める筆致に、時代の変化を感じます(The ‘Nation’s Psychiatrist’ Takes Stock, With Frustration. Feb. 22, 2022, The New York Times)。

 著者のトーマス・インセル博士は、アメリカ精神医学の総本山ともいえるNIMH、国立精神衛生研究所の所長を13年勤めました。7年前に退官し、このほどそのまとめともいえる本を出しています。「癒やし:精神疾患から精神保健へ」という意味のタイトルがついています。

NIMH(米国立精神衛生研究所)

 インセル所長のもとでNIMHは200億ドル、2兆円あまりの研究費を使い、神経科学と遺伝子レベルの研究を進めました。成果はあったけれど、それが患者の利益に還元されることはほとんどなかったとインセル博士は認めています。
「私たちはますます大規模な研究を、ますます微小な部分で進めたのだった」
 統合失調症や双極性障害に関与する遺伝子はあまりにも多く、その相互作用はあまりに複雑すぎてとても解明できない。基礎研究は臨床に還元されないまま、精神医療の現場は停滞し、多くの患者が警察か刑務所のお世話になるしかなかったということです。

インセル博士の近著

 インセル博士は、NIMHの所長だった最後の年、講演で質問されたことがあります。統合失調症の23歳の息子が入退院と自殺未遂、ホームレス暮らしをくり返している父親です。
「わが家は火事なんです。だのにあなたは化学の話をしている。どうしてこの火事を消してくれないのか」
 彼の疑問には答えることができないと、インセル博士は正直に認めています。

 さてここからはぼくの見方です。
 精神医学の分野では、脳の研究を徹底して進めれば精神病は解明できるという、いわゆる生物学的精神医学とよばれる立場の人びとが力を持っていました。しかし過去30年、そうした研究が臨床に反映されることはほとんどなかったといえるでしょう。
 そこから浮かび上がるのは、こういうことです。
 脳ではなく、人間。
 哲学者のマルクス・ガブリエルさんがいっているように、「私たちは脳ではない」のです。

 統合失調症であれ双極性障害であれ、患者の「脳」を調べても「火事」は消せない。患者というよりひとりの人をその全体において捉えること。少なくともいまは、そこからしか精神医療ははじまらない。
 NIMHの2兆円の研究があきらかにしたのは、そのことだったのではないでしょうか。
(2022年4月16日)