精神疾患の公表・2

 政治家がうつ病を公表したのは、うつ病に対する理解を進めるという議論をきのう紹介しました。ただし「うつ病は治療できる。身体疾患とおなじだ」という言い方には、不安を覚えるとも書きました。これをちょっと補足します。

 ぼくは大学時代の親しい友人をうつ病でなくしたので、うつ病を「こころの風邪」と軽く見るのは危険だと知りました。かといって一概に重い病気ともいえない。治療でよくなることはあるけれど、くり返すことも多いから、まずは気長にとりくむべきなのでしょう。

 うつ病になるのは、運が悪いということかもしれない。でもいつかどこかの段階で、その運の悪さを「引き受ける」感覚があるといいのではないか。病気と闘う、根治するというよりもむしろ、ずっと「つきあっていく」こころもよう。
 統合失調症など、ほかの精神疾患も、色合いのちがいはあっても、このこころもようは共通するようです。

 ぼくは北海道で多くの精神障害者と長年あれこれの話をしながら、精神病は治すというより引き受けるもの、つきあうものだということを、理屈としてではなく、たたずまいとして、空気として伝えてもらった覚えがあります。
 その背景には、この病気はかんたんに治らないという現実がありました。統合失調症もうつ病も不安症も、みな原因はわからず診断基準は定まらず、治療法も確立していない。薬も療法も多岐にわたるけれど、すべてはいわば対象の定まらない対症療法のようなもの、多くの患者は苦労の多い人生を生きなければなりません。

 かつてそれは病気ではなく本人の生来の問題とみなされました。世間の誤解と偏見は強かった。最近は病気だという理解が進み、これは脳の一時的な不調で、本人の人間性に問題があるわけではないと多くの人が思うようになりました。うつ病だけでなく双極性も統合失調症も不安症も、症状を緩和する方法はあるし、社会復帰は可能だとされるようになった。
 それはそれで、精神疾患に対する多様で包摂的なアプローチにつながります。

 けれど逆に、「大丈夫、治す方法はある」と強調するのは、治らない人を追いつめることにならないだろうか。あるいは精神病の本来の姿を見失うのではないか。精神病は解決し乗り越えるべき課題というより、ぼくらがこの病気と、そしてこの病気を生きる人びととともにいて、どのようにかかわるかを問いかけている。
 治そう、治したいというより、どう引き受けるか、どうつきあうか。そういうかかわり方のもとで、病気もまたその相貌を変えてゆきます。
(2023年3月7日)