精神科の常識と非常識

 きのう、精神科は常識が必要だと書きました。
 専門知識より常識が大事だなんて、しろうとの妄言、ネット上の無責任な発言ととられたかもしれません。けれどこれは、浦河で長年精神障害とともに過ごすうちにぼくが抱くようになった認識です。

 精神病っていったい何なのか。考えてもよくわからない。
 精神病の診断は、医者により時代によりちがう。誤診も多い。
 治療はむずかしい。なかなか治らない。
 完治できないから、症状を抑えるために薬を使う。
 薬は役に立つけれど、決定的ではない。
 医者がはたす役割もまた、決定的ではない。看護師もワーカーも同様。
 仲間同士のつながりが、頼りないようだけれどとても大事。
 つまり精神病は、医療の枠内だけで考えていたら患者にとって救いがないのです。

 というようなことが、ぼくにとってはあたりまえのこととして見えてくる。常識になります。浦河にいると。
 そこから、「病気を治す」とはいったいどういうことかを考えます。治すことだけを考えていたら、結局医療という枠組みに回収されてしまう。治すこと以外の、暮らし、生き方を考えなければいけないと思うようになります。

 これがそのまま、きのうまで論じたアメリカの精神科医、アレン・フランセス博士の常識だとはいいません。けれど通じるものがあるでしょう。博士は多数派の生物学的精神医学には批判的だし、著書のなかで何度も患者の「自然治癒力」に言及していますから。

 日本の精神医療では、暴れる患者をベッドに縛りつけ、そのために患者が死んでしまう例がいくつもあります。なんという非常識かとあきれてしまう。暴れる患者は、縛りつけても暴れなくはならない。それは幻聴や妄想を否定してもなくならないのとおなじことです。縛っても否定しても、病気がよくなることはないというのがあたりまえの常識でしょう。

 では暴れる患者、重い精神症状を呈する患者にどう対するか。これはもう、一人ひとり、そのときそのときに考えるしかありません。
 考えて、悩む。そうしてきたから、浦河ひがし町診療所では患者を縛るようなことは一度もありませんでした。これからもそうでしょう。

 考えれば常識的になる。考えなければ非常識になる。
 精神科とはそういうところではないかと、浦河にいると思うようになります。
(2022年5月31日)