AIに対抗して・2

 手話を母語とするろう者はぼくらと言語の使い方が異なる、それは手話を「書かない」ことと関係するのではないかと書きました。これは誤解されやすい言い方かもしれません。補足します。

 ぼくらは言語というものについて漠然と、文字を持つ言語がすぐれていて文字を持たない言語は劣っていると思いがちです。ぼく自身がそうでした。でも手話と出会い、それがまちがいだと知りました。まちがいは、黒人英語が白人英語より劣っていると思うのとおなじように、偏見からくるものだということもわかりました。
 文字を持つかどうかに関係なく、地球上にある人間のあらゆる言語に優劣はありません。そのことを念頭におきつつ、考えを進めましょう。

 ろう者と聴者で「言語の使い方が異なる」とはどういうことか。
 それは手話が、書くこととは無縁の、徹頭徹尾「語りの言語」だということです。手話を使うろう者は、目の前にいる人の目を見て直接語りかけることを基本とする。その語りには、文字を持つ言語にはない力、輝きがあります。このことをぼくは、手話の世界で何度も思い知らされました。言語の使い方が異なるというのは、あの不思議な輝きがあるかないか、そのあたりのことをさしています。

 さらにいうなら、ぼくは手話に出会って「書く」ことは言語の必須条件と思わなくなりました。
 書かれないことによって、言語は真に自由なるのではないか。そんなことすら思います。書くこと、ことに学校教育に骨の髄まで侵されたことで、ぼくらは、ぼくらの先祖が持っていた自由な言語をなくしてしまったのではないか。極論に響くかもしれませんが、そんなふうにも思うのです。これに似たことを人類学者の川田順造さんも『多言語主義とは何か』という本のなかで、西アフリカの無文字社会についてのべていました。

 現実には、文字が読めなければ社会生活は送れません。真に自由なことばなんていう、あるかないかもわからない辺境に目を向ける人はいないでしょう。大多数の人が、大多数に通じることばで、論理で、構成で文章を書かなければならない。そのように教育され、知識と技量の体系を習得させられている。
 まさにそこに、AIが入ってくるのではないか。
 誰にでも書ける、誰にでも通じる文章、論理。決まりきった表現、無難だけれど退屈なことば。それはAIがいくらでも考えてくれます。結婚式のあいさつ、国会の演説、卒業式の祝辞、役所の説明、それらはAIに任せたほうがずっといいのではないか。
 ぼくらはぼくら自身のことばで、目の前の相手にどう語るかを誠実に考えなければならない。その意味で、チャットGPTのようなAIはむしろ歓迎したいとぼくは思っています。
(2023年1月10日)