AIに対抗して

 大学の論文は死んだ(The College Essay Is Dead)。
 アメリカの雑誌「アトランティック」12月7日号に、こんなタイトルの記事が載りました。イギリスの大学教授が、チャットGPTというAI、人工知能プログラムに教育学のテーマを出題したところ、たちまち「大学院生レベル」の論文を書いてしまった。これではもう学生に論文を書かせる意味がなくなった、という話です。
 AIの登場で、大学教育は根本から見直しを迫られているという趣旨の記事でした。

 チャットGPTだけでなく、最新のAIは自然言語について、また人間が言語を使うことの意味について、まるでパンドラの箱を開けたようにさまざまな議論を刺激しています。それを的確に紹介する余裕も力もないけれど、笑いとともに注目した論点がひとつありました。
 学校がAIに対抗するために、論文を手書きにすればいいというのです。手書きの論文を自宅ではなく教室で書かせる、そうすればAIによる“盗作”はなくなり、学生は考える力を身につけて教育の目的は達成できるというのです(Here’s how teachers can foil ChatGPT: Handwritten essays. By Markham Heid. December 29, 2022, The Washington Post)。

 サイエンス・ライターのマーカム・ヒードさんの主張は、AIに対抗しようとか、教室で禁止しようということではない。ぼくなりに翻訳すれば、「そりゃAIはすごい。でも、だからこそこの際考え直そう、手書きの力を」ということでしょう。
 これは絶望的な主張かもしれない。いまはもう誰もが生まれたときからスマホやタブレットになじみ、手書きではなくキーボードで、タッチスクリーンで書いている。いまさら手書きって、不可能でしょ、となりかねない。
 しかし、と、ノルウェーの神経心理学者、オードリー・ヴァンデルメール教授はいいます。
「手書きは記憶と学習をつかさどる分野を相互に刺激するので、新しい情報を記憶したり学んだりするのにはとても役立つのです」
 専門家はみな、手書きが脳神経系にポジティブな影響を及ぼすと指摘しています。

 チャットGPTに手書きで対抗。無理筋かと笑ってしまうけれど、もしかしたら言語の本質にかかわる論点かもしれない。
 そう思うのは、ぼくが「書かない言語」とかかわってきたからです。具体的にいえば、ぼくは手話という文字のない言語とさまざまにかかわりました。そこで思うようになったのは、手話を母語とするろう者は、ぼくらの日本語とはずいぶん異なる言語の使い方をする、それは手話に文字がないこと、すなわち母語を「書かない」こととかなり関係があるのではないかということでした。

 書くことは、ぼくらの脳を、ぼくらが思う以上に変えている。そんな認識があるので、AIの登場で起きた手書きをめぐる議論には、賛成反対を超えた特別な関心をいだいています。
(2023年1月9日)