AIを禁止するな

 昨年末公開された「チャットGPT」などの最新型AI、人工知能は、かなりの社会変動を起こしています。
 業界が沸くのは当然でしょう。グーグルやマイクロソフトが、億兆の投資を急いでいる。これはパソコン、インターネットにつづく第3の情報革命じゃないか。文明史的に見れば、文字の発明以来の大変動と考えたくもなる。

 でもぼくのなかには、あわてることはないという感覚があります。どんなに進歩したAIにも絶対にできないことがあるから。
 それは悩むことです。
 悩むことがないAIは人間の仲間になれない。もし仮に、何らかの方法でAIがほんとに悩むことができたら、そのとき、そのAI(あるいはそういう思考力をもったロボット、アンドロイド、会話マシン)はぼくの仲間です。人間かどうかなんて関係なく。

 以前どこかで読んだひとつの文章を思い出します。それはAIが書く小説はほんとの小説なのかという議論でした。そして生身の人間か機械かに関係なく、書かれたものが読むもののこころに響き、さまざまな思いを喚起するのであればりっぱに小説ではないかという主張がありました。誰がどう書いたかではなく、誰がどう読んだかです。これはすっとぼくのなかに落ちつきました。
 そこから小説とは何か、作品とは、人間とは何か、思考は拡散してまとまらないのですが、最新のAIはそういう思考の冒険をうながしてくれます。

 前置きが長くなりました。そんなことを考えたのはワシントン・ポストにAIをめぐるオピニオンがあったからです。ウィスコンシン大学の哲学者、ローレンス・シャピロ教授のエッセーでした( Why I’m not worried about my students using ChatGPT. By Lawrence Shapiro. February 6, 2023. The Washington Post)。

 AIが登場して学生が使うようになり、じゃあ大学教育っていったいなんなんだと深刻で愉快な議論が広がっています。学問の代わりにAIを使うのは勉学じゃなく詐欺だろうと、AI禁止を唱える人も多い。
 それに対してシャピロ教授は、基本的には何もするな、使いたいやつには勝手に使わせろといっている。ま、哲学者としては当然の主張ですね。
 きっといいたいのは、どんなAIがどれだけ出てこようが「最後は哲学」ってことじゃないでしょうか。もちろん教授はそんな品のないことはいわない。でも彼のエッセーを読んでそんな思いを抱きました。

 作家野坂昭如の、時代を画したCMソングが浮かびます。
「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、みんな悩んで大きくなった」
(2023年2月17日)