年末、ひがし町診療所はのんびりした気分がありません。
大掃除も終わり正月の準備もできたのに、ほっとしていない。
患者がひとり、行方不明になっているからです。川村先生の外来を受診していました。数日前に車を借りてどこかに出かけ、以来どこに行ったかわからない。そのうち帰ってくるだろう、いずれどこかから連絡があるという期待が、少しずつ心配に変わっています。関係者の捜索がつづいています。
浦河ではときどき、行方不明になる人がいます。
かつて日赤病院に精神科病棟があったときは、無断で病棟を抜けだし、隣町や札幌まで、なかには本州にまで行った人がいました。だいたいは途中で立ち往生し、その日のうちに警察に保護されるなどして帰ってきました。けれど、帰ってこない人もいました。精神科病棟がなくなっても、依然として姿を消す人がいることに変わりはありません。
いまの自分でいるのが、生きているのが、息をしていることさえつらくて耐えられない。
自分を消したい。消えてなくなりたい。
そういうふうになったとき、人は姿を消すことがあります。そのような人を助けるのは、ときどきとてもむずかしい。
何をしても、誰がどうしても、その人を助けることができない。ときにはにこにこと笑っていた人が、何の前触れもなくぼくらの前から姿を消してしまう。大部分のケースはそうはならないけれど、これまでそうなる人が何人もいました。
助けられなかったとき、支えられなかったとき、多くの人が「自分は無力だ」と思い知らされます。ことばを失います。診療所が何よりも大事にする「笑い」がはじまるのはここからです。
ひがし町診療所には、日赤病院時代からの「無力」の積みかさねがあります。
無力だけれど、ときどきうまくいくこともある。おそらく大部分の人はそんなふうに自分たちを、病気とのかかわりを捉えているのではないでしょうか。
診療所が楽しいことをしよう、おもしろいことをしようといい、病気を治すよりまず暮らし、といいながら田んぼで米をつくる、バーベキューで集まる、ミーティングで笑いつづける、そういう一見能天気な日々は、「無力」と背中合わせなのです。
無力ではあるけれども、あきらめることはできない。
行方不明となっている患者の捜索はつづきます。
(2020年12月30日)