去年以来、フェリックス・ガタリについて何度も書いてきました。
ガタリと精神医療、とくに北海道の浦河ひがし町診療所とのつながりについて。
この二つがつながっているというのはぼくの勝手な言い分で、ほかにそんなことをいう人はいません。それでもなおガタリとの関連に注目するのは、そこに精神医療の普遍的なエッセンスがあると思うから。それが妄想なら、いい妄想に取りつかれているかもしれない。
現代思想の分野で、ガタリは傑出した存在です。
と、ぼくがいっても説得力はないけれど、千葉雅也さんの『現代思想入門』では、ガタリは「ドゥルーズ+ガタリ」と表記され、哲学者ドゥルーズとのコンビとして捉えられています。ドゥルーズはデリダやフーコーとともに現代哲学を築いた巨星とされるから、そのドゥルーズの思考を鍛えたガタリも天才だったにちがいない。
ドゥルーズ+ガタリについて、矢部史郎さんは、ガタリはドゥルーズほど言及されることは少ないけれど「ある意味でドゥルーズ以上に熱烈な支持者」を生み出したといいます。
「ガタリの支持者たちは、ガタリに関する研究論文を書いたりはしない・・・論文を書くのではなく、具体的な実践に向かう」(『現代思想』2013年6月)
哲学者であるとともに社会運動家でもあった。人々を動かす力があり、多くの熱烈な支持者がいたけれど、自身が権威になることはなかった。権威をつねに解体することこそが彼の思想だったから。
ガタリを多少なりとも読みはじめて、いやながめはじめて、ぼくはいやおうなくガタリ的なものに引きこまれてきました。支持者というレベルではなく、その手前のファンくらいにはなれたつもりです。
そういう軽薄さを許してくれるふところの広さが、ガタリにはあるのではないか。『カオスモーズ』で彼は書いています(前掲『現代思想』粉川哲夫氏による引用)。
「一人の芸術家が先人や同時代人から自分にとって好都合な着想を借り受けるのと同じように、わたしの著作を読む者は好きなように私の概念を取り入れたり、拒絶してくれればいいのです」
自分を好きなように使ってくれとガタリはいうのですね。
たぶんそういうことだろうと受け止めつつ、ぼくはガタリのいたフランスのラボルド精神病院と、北海道の浦河ひがし町診療所とをくらべて見るようになりました。ラボルドを見たわけではないけれど、関係者の記録を読むかぎり、ラボルドとひがし町診療所はその精神においてそっくりおなじ精神療法を実践してきたと思うようになりました。
ともに「開かれている」、そこが肝心なところだろうとみています。
(2025年1月31日)