芝生のイメージが変わっている。
上流の暮らし、立派な市民生活のイメージを作りあげてきた「きれいな芝生」が、環境保護の観点から「悪者」になっていると、これまでにも書きました(2月8日ほか)。その芝生を、新しい形に作り直す動きがあります。こういうのは応援したい。「完璧にきれいな芝生」なんてものをなくすために(Lawns Draw Scorn, but Some See Room for Compromise. May 9, 2024. The New York Times)。
青々とした芝生は、まず単一種植物の栽培という点で、生物多様性の否定と批判されます。そのうえ大量の水や肥料、除草剤を使うなど、「浪費」のシンボルになりました。ウィスコンシン大学のP・ロビンズ教授はいいます。
「青い芝生は枯れた芝生とおなじように、道徳的な失敗とされるようになった」
じゃあこれから芝生はどうなればいいのか。
そこでぼくが感銘を受けたのは、庭園デザイナーといわれる人びとです。
ランドスケープ・デザイナー(landscape designe)、日本だったら植木屋さんにあたる庭の専門家です。彼らが、芝生を超えた議論をがはじめるようになりました。
たとえばアリゾナ州の庭園デザイナー、C・レイさんはいいます。
「美しさとか、みずみずしさということについての会話を変えたいと思うんです。信じられないほど大量の水を使う芝生が、ほんとにいい生活になるのかって」
砂漠地帯のアリゾナでも、その土地で自然に生育する植物を活用すれば、それほど水がいらず環境にあった庭ができる。もちろん、希望に応じて一部は芝生にしてもいい。
ニューヨーク州のデザイナー、E・フォンガルさんは、「3分の2は鳥のために」が大原則だといいます。
「植生の70%が自生植物だと、十分な鳥の数を維持できる。鳥が来るかどうかが健全な環境の目安なんです」
だから3分の2は地元の植物で作る。残りは芝生でもいいけれど。
デザイナーのなかには、砂漠のなかの家でも庭を草でおおい、緑にしようとするのはなぜかと疑問を呈する人もいる。「庭は緑」という思いこみがありはしないか。それより、庭は周囲の自然とつながった形で、むき出しになった土のある方がいい。それが環境とともに生きることにもなる。
芝生をめぐる論争は、単純な環境保護論や水資源の節約ではない。自然とどうかかわるか、ひいてはどういう暮らしを選ぶかの人生哲学が問われます。そこを考えようとする庭園デザイナーは、なかなか奥深い仕事なのだと知りました。
(2024年5月21日)